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桐ヶ丘レポート まえがき


今回書き残しておきたいのは東京都の北区桐ヶ丘(きりがおか)だ。

JR赤羽駅からそう遠くないこの場所は北区民であっても知らない人が少なくない。なぜなら特定の人間以外はその場所にいく必要が無いからだ。

それは何故か?

「桐ヶ丘」という場所がほぼ団地のみで構成された地域だからなのだ。
今回記録化しておきたいのは桐ヶ丘にある桐ヶ丘アパート(都営住宅)を中心とした『都営桐ヶ丘団地』である。なお北区桐ヶ丘周辺地域にはアパート、マンションが集中しており、この地域は超広域団地地帯としての特異さを併せ持っている。
参考までに列挙するとこのエリアには桐ヶ丘アパートを中心に、

●桐ヶ丘一丁目アパート
●都営桐ヶ丘赤羽台アパート
●都営赤羽西五丁目アパート
●都営赤羽北三丁目アパート
●都市再生機構赤羽台団地
●都市再生機構赤羽台4丁目団地
●東京メガシティ


などをはじめとした多くの団地や巨大マンションが密集しており、いかにこの周囲が団地だらけかということが分かる。これが『都内最大級の団地密集地帯』と呼ばれる所以である。

※上記説明内で「超広域団地地帯」と言う表現を使ったが、団地に居住する住民の多さで言えばこの桐ヶ丘団地よりも、同じく北区内にある豊島5丁目団地や板橋区高島平の高島平団地のほうがはるかに上である。しかしその団地エリアの敷地の広さで言えば桐ヶ丘団地のほうがはるかに広い。これは桐ヶ丘団地に低階層の居住棟が多いことに他ならず、古くから存在する団地であることを意味している。1棟あたりの世帯数が圧倒的に少ないのだ。
桐ヶ丘に最初の団地棟が作られたのは昭和30年。数ある都営団地の中でもごく初期に作られた団地なのである。

このような地域のため、地域住民かこのエリアにある学校、病院などの施設の利用者、もしくは団地マニアな方(笑)以外はこのエリアに行く必要はない地域になっているワケだ。そのためこのエリアはある意味外界から孤立した感があり、まるで時間の流れがそこだけ遅くなってしまっているかのような印象を受けるのだ。また、この団地にある日本最古級の都営団地建築物がその独特の空気を更に増幅させているエリアなのである。
なお、上で「団地マニアな方以外は・・・・」という表現を使ったがこれは当たらずとも遠からずな表現であり、桐ヶ丘団地や周辺の赤羽台団地を含めたこの一帯は一部の団地フリークスたちのあこがれの地でもある。


序への導入部が長くなってしまったが、今回はこの『都営桐ヶ丘団地』エリアについていつもよりも少し真面目に、気合を入れてレポートしてみたいと思う。どの程度の気合の入り方かというと、今回のエントリーをこのようにアップするまでにおおよそ4ヶ月程度の月日を要している。ちまちままとめ続けてやっと公開できる程度になったといった所だ。詳しくはレポートの中で説明するが、このエリアで味わえる高度経済成長期の昭和っぽさの残る部分は建て直し(増改築ではない)や取り壊しが決まっており、どんどん自分の好きな雰囲気が消えてしまっている。大好きな都営桐ヶ丘団地のあの雰囲気を記録に残せるのは2010年のこのタイミングが最後だろうと考え、後年になっても鮮明にこの記憶が思い出せるようにという狙いを持ってデータ化する。


上に書いてきた「まえがき」と以下にまとめる「序章」を以って今回のエントリーとする。

なお、当桐ヶ丘レポートは、

【1】 序 都営桐ヶ丘団地の成り立ちとその歴史背景
【2】 都営桐ヶ丘団地の魅力1~3
【3】 都営桐ヶ丘団地の魅力4~6
【4】 都営桐ヶ丘団地の魅力7~8
【5】 桐ヶ丘レポート 跋


の5項目に分けてまとめてゆく予定である。(書き進めるうちに変更はあるかもしれない)
特に以下より展開する序章についてはいつもと異なった硬い表現が多くなるがご容赦いただきたい。




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以下より桐ヶ丘レポート序
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【1】 序 都営桐ヶ丘団地の成り立ちとその歴史背景


それでは今回の散歩の意図と、2010年7月現在の都営桐ヶ丘団地の状況を理解していただくため、都営桐ヶ丘団地の歴史を紐解いていこう。

なお、本文を書くにあたり北区中央図書館にて北区史および桐ヶ丘団地に関する本を何冊か借り、時代背景考証やリアルにその時代を感じるための参考資料とした。


画像資料があるとやはりよりリアルに当時を想像できる


また、散策の途中に北区赤羽、桐ヶ丘、十条、滝野川などでその地域に住んでいる方に直接話しかけて得たフィールドワーク情報も交えていく。
都営桐ヶ丘団地の魅力が少しでも多くの人に伝わって欲しいという願いを込めデータに残す。


北区中央図書館外観


なお上の画像が資料を借りた北区中央図書館。
実はこの図書館の外装もこれから書く北区の歴史に深く関連している。詳細はのちほど。





[1]東京都北区の歴史 ~軍都赤羽根~

まずは都営桐ヶ丘団地をより知っていただくために団地建設の背景と、この土地の歴史について触れていこう。

もともと東京都北区という土地は明治時代以降『軍事産業』で成長していった地域である。

明治時代、東京の北部地域ではそれまでの農業だけでなく「工業」という産業を発展させようという動きが盛んになり、そのための用地が選定された。これらの工場施設には水が絶対に不可欠であり、そういった条件を前提に選ばれた地域が現在の北区赤羽、十条、王子、滝野川周辺地域であった。
この地には以前のエントリーでも桜の名所として何度か書き残している「石神井川(しゃくじいがわ)が流れており、その豊富な水源を利用することよって工業を発展させていった。この時代に鹿島紡績(その後、東京紡績→大日本紡績→合併吸収を繰り返し現ユニチカとして存在)、醸造試験所(全国の酒の等級がここで決定されていた)、蚕病試験場王子抄紙会社(現王子製紙)+造幣局といった産業や政府機関が北区に発展していった時代であった。※現在の飛鳥山に紙の博物館があるのは王子が製紙産業で栄えたためだ。

なお、下の画像2枚は2008年10月25日の醸造試験所跡地。現在は北区管理の公園になっている。


醸造試験所跡地は現在は公園になっている


公園内はこんな感じ


奥に見える建物は残存している醸造試験所の建物。公園の敷地外にあり入ることはできない。




紡績工場や製紙工場など大規模な工業が発展していくと共に北区に増えていったのが軍事施設であった。

明治5年、現在の北区桐ヶ丘に『兵器支廠赤羽根火薬庫』が完成。(廠=ショウ:壁仕切りのない簡略なつくりの小屋、建物)
続いて明治9年には現在の北区西が丘あたりに『板橋火薬製造所分工場』が完成する。
なお、この頃の赤羽は「赤羽根」と表記されていたそうだ。

軍事産業を含めたこれら工業はどんどん成長し、インフラもそれに合わせるように整備されていった。
明治16年に高崎線が開通し、王子駅開設。明治18年には赤羽駅開設。(※どちらも現在の駅とは異なる位置にあった。また赤羽駅開設を王子駅開設と同じく明治16年とする説もあるそうだが正確には不明)

そのように便利になった町には更にいくつもの軍事施設がやってくる。
明治20年、『赤羽八幡神社』の裏手(現在その場所はミッションスクールの「星美学園」になっている)に『陸軍第一師団工兵第一大隊』が転入。
この転入をきっかけに、本格的に軍都としての北区が発展していく事になる。

なお、赤羽八幡神社は現在も同じ位置に存在しているため、この場所に行くことでよりリアルにその規模を想像できるかと思う。参考までにその住所を記しておく。


赤羽八幡神社

■赤羽八幡神社 東京都北区赤羽台4-1-6
 以下は赤羽八幡神社オフィシャル
http://www3.kitanet.ne.jp/~ak8mans/

第一師団工兵第一大隊転入の1年後となる明治21年、今度はこの地に『近衛工兵大隊』が転入してくる。この近衛工兵大隊の転入場所は現在の『東京北社会保険病院(旧国立王子病院)』のある位置だ。(※北区赤羽台4-17-56)
この第一師団工兵第一大隊近衛工兵大隊を併せて赤羽工兵隊と呼称することもあったそうだ。


※知識が足らず、正確に意味を理解できていない言葉があったため以下に覚え書き。
・工兵
旧日本陸軍で、築城・架橋・鉄道敷設・爆破・測量などの技術的な任務に従事する兵。赤羽の工兵たちは荒川の流れに橋を架けたり堤防を築いたりといった治水工事のようなこともしていたそうだ。
・近衛(師団)
宮城(きゅうじょう≒皇居)の守護および儀仗(ぎじょう=元首・要人などの儀礼・警護)を任務とした旧日本陸軍の師団。明治4年(1871)に創設された御親兵を翌年近衛兵と改称、同21年に近衛師団となった。



明治24年、今度は現在の赤羽台1丁目周辺が『陸軍被服本廠』にあてられた。(ここでは軍服、帽子、靴などが作られたそうである。)
次いで明治28年には王子の豊島地域に『王子火薬製造所』が作られる。なおここでの豊島は現在の豊島区のことではなく北区豊島のこと。
更には明治38年に文京区小石川(現在東京ドーム、後楽園遊園地、ラクーアなどのある場所)にあった兵器製造所が現在の北区十条台に転入してくる。これが『東京陸軍第一造兵廠十条工場』と呼ばれた施設で、この地域には赤いレンガで作られた兵器廠が20棟以上建てられたのだという。


少し話が逸れるが、この赤レンガ兵器廠の一部(275号棟)は驚くべきことに2006年までこの地に残存していた。(長い間民間で転用されていた)残念ながら現在は既に解体されてしまっており、私自身はこのオリジナルの建物を画像データに残すことはできながったが、多くの素晴らしいホームページやブログでその姿を見ることができる。
本レポートの冒頭で「実はこの図書館の外装もこれから書く北区の歴史に深く関連している。」と書いたが、この東京陸軍第一造兵廠十条工場275号棟の一部は流用され、跡地に建設された北区中央図書館の一部として再建された。そう、画像で確認できる赤レンガ倉庫は旧陸軍の倉庫として使われていた建物をそのまま流用して再建されたレンガ倉庫なのだ。わずかではあるが当時の雰囲気を図り知る事ができるのだ。また図書館の内部にはその兵器廠だったレンガ倉庫の説明や、独特な鉄柱のつくりについても解説されている。当時の建材をそのまま利用して館内にその鉄柱も再現されている。2008年に完成したそんな北区の中央図書館には多くの区民が集っている。


北区中央図書館と自衛隊十条駐屯地


北区中央図書館の奥、水色の塔が見える建物は自衛隊十条駐屯地


北区中央図書館外装_275号棟の生まれ変わり


ダメージを含めて意味がある


レンガへのダメージは古いものも新しいものもイコール歴史である。
もう少しこのレンガ倉庫を詳しく知りたい方は以下の資料をチェックしてみてはいかがだろうか。

■北区ホームページ内 中央図書館ご案内ページで公開されている赤レンガ倉庫に関する資料 ※pdf直リンク
http://www.city.kita.tokyo.jp/docs/service/272/atts/027236/attachment/attachment_3.pdf


脱線ついでにもうひとつ。
さきほどGoogleマップで北区中央図書館の航空写真を確認したところ、解体される前の赤レンガ廠が残っている時期のデータで少し驚いた。図書館前の公園スペースが造成途中であるように見えるので、解体直前の2006年に写されたものと推測される。周囲には桜も確認できるので季節は春だろう。あの塗りがボロボロになった水色の屋根を確認することができる。もちろん解像度は低いが今となってはそれなりに意味のある画像になっているのではないだろうか。このバージョンの航空写真データがいつ更新されてしまうかは分からないが2010年7月現在はその年季の入った屋根のペイントを楽しむことができる。
※これが見られるのはGoogleマップのデータ。Googleアース及びストリートビューのデータでは建て替えの終わった中央図書館が写っており、建て替え前のオリジナル廠を確認することはできなかった。


北区中央図書館上空の図


それにしても昔の事とはいえ、軍用施設だった場所をこんな風に見られるなんて・・・・・
戦時中だったらスパイとして逮捕されているところである。





閑話休題。

こうして赤羽には軍事産業に従事する人間や、そういった人たちに食料や日用必需品を売る人々がどんどん流入し『軍都』として発展していったわけだ。(工兵の家族が面会に行く際の土産屋、休日の娯楽のための飲食店、映画館やキャバレー、そして風俗までさまざまな商売があふれ、赤羽はとても賑やかだったそうだ。こういった物資や人の集中が赤羽の町を形成する源となったエネルギーなのだ。)
軍人と民間人はこのように深く結びついていたため、概ねお互いにとても協力的で良好な関係を築いていた。町の多くの人々も「兵隊さん」が町にいるのを喜んでいたようである。
明治36年には「赤羽大火」とよばれる大火事により赤羽地区211戸全焼という大災害に見舞われてしまうが、この際に消火活動や鎮火後の町の復興のために工兵たちが力を貸したというエピソードも残っている。
このような関係は現在北区十条台に駐屯する『自衛隊十条駐屯地』の自衛隊員と周辺住民が深く交流を持っているのを見るにつけ、そういった気質が今もこの地に残っているのかと感じることがある。

大正時代になると赤羽には製麻工場、製糸工場も整備され、陸軍被服本廠へ物資を供給した。

以上のように北区、とりわけ赤羽、十条地区と陸軍とは密接に結びついていた。参考までに昭和初期北区にあった軍用地を2010年の赤羽周辺地図に書き込んでみた。
以下がその地図である。

※いくつかの資料やネットでの情報を元に当時の軍用地を書き込んでいますが、現在の区画に無理やりあてはめただけですので厳密には当時の場所とは異なっている点も多い事をご理解ください。またもともとが軍の施設であったと言う性質上、公開されていないデータも多いため不正確な部分が多いのだと思います。(資料によって内容が異なっているものが多い)それぞれの廠の呼称については年代によっても名称が異なるため地図内の表記とは違った呼称で記録されている場合もあります。


北区軍用地マップ高圧縮版
※クリックで地図拡大します


いかがだろう。想像以上に軍事施設の占める割合が大きいのではないだろうか。
なるほど、まさにこれは軍都だ。

戦前までに北区は23区で最も軍事施設の多い区となり、区の面積の10%程が軍に関連する施設、敷地だったというのだから、軍にかかわる仕事に就く人間も多かった。実際、十条台や滝野川を散策した際に町にいた80歳以上くらいの方何人かに当時の施設の様子などを覚えていないか話を聞いたが、軍の施設で働いていたという方も多かった。
こうして赤羽や王子、十条にはどんどん人が流入し、北区は東京都内でも他に類を見ない特異な形で発展していくことになる。




[2]東京壊滅 ~太平洋戦争勃発そして終戦~

[1]項で書いてきたように、軍都赤羽根は巨大化の一途をたどる。
様々な軍事施設が転入してきた赤羽根の利便性を更に向上させるため、鉄道網が発展したのもこの時代の北区を象徴している出来事だ。

明治43年 十条駅開設
明治44年 王子電車、大塚~飛鳥山間開通
大正2年 王子電車、飛鳥山~三ノ輪間開通
大正4年 王子電車、王子~飛鳥山間開通
大正7年 東京市電、王子~駒込間開通


現在は『都電』として親しまれているチンチン電車のはしりもこの時代に成り立ちがある。
※現代の東京を走る都電はもともと王子電鉄(王電)であった。王電は昭和17年に「東京市電(市電)」に統合され、翌昭和18年に「都電」と名称を変える。

こうして北区は成長を続け、人口は昭和15年に戦前のピークである35万人に達する。

昭和16年 太平洋戦争 開戦
昭和17年 東京市電が東京地下鉄道を買収 王子~赤羽間開通
昭和18年 学童疎開始まる


開戦後の軍都赤羽の空気は如何様な物であったろうか・・・・。
軍事産業によって発展してきた町は当然敵軍からの爆撃目標となる。

昭和20年4月13日深夜から4月14日未明
同年3月10日のいわゆる『東京大空襲』に続き、東京市城北地域が空襲に遭う。
当時の東京市滝野川区、王子区を含む城北地域一帯に壊滅的被害が出る。

昭和20年8月15日 終戦
この年、北区の人口は14万人にまで減っている。あなたの周りにいる人の10人に6人がいなくなる計算だ。想像できるだろうか。昭和48年生まれの自分にはリアルにそのような感情を想像することは難しい。

生き残った人々はそんな状況の中を生き続けなければならない。
当時は配給だけではその日の食料はままならないような状況で、赤羽には自然とヤミ市が発達していく。現在も北区赤羽に残る『赤羽一番街』の発足はそんな時代、昭和21年の事である。

昭和22年、戦火によって都市が崩壊し人口が激減した東京では行政の主導により区画整理、区画統合が行われ、新たな東京の復興が始まっていく。このとき東京は初めて23区制となり、東京都北区が制定される。

なお、この年から北区には進駐軍が駐留することになる。
都営桐ヶ丘団地内で話をさせてもらった生まれも育ちも赤羽だという68歳の男性は小学生の頃にこの進駐軍からガムやチョコレートをもらった記憶が鮮明に残っていると語ってくれた。戦後の食糧難時代であり、当然お菓子などは買えず甘いものに飢えている時代だ。子供であったなら有無を言わさず飛びつくだろう。その男性いわく「アメリカ人のくれるガムはね、今のチューインガムなんかよりも厚くて噛み応えがあってうまかったんだよ。噛んでは口から出してとっておいてまた噛んでってのを3日くらいは続けたよ。あの厚いガム、今売り出したら売れるんじゃないかい?」とのことだった。少しユーモアを交えて明るい語り口で話をしてくれたため悲壮感はまったく感じなかったが、つらい時代であったという内容は複数の資料からも見ることができる。またその男性は「アメリカ兵は最初ッから自分たちで(日本)軍の基地使おうと思ってたから軍事施設は残ったのに町はボロボロだったよ。」とも言っていた。

こうして北区にあった広大な軍用地の半分以上は占領軍(実質的には米軍)に接収され、その後段階的に日本に返還されていくのだが、最終的に『キャンプ王子(現在の北区中央公園)』が返還される昭和46年(1971年)まで24年間に渡って北区に駐留していたのである。
現在も同地にはキャンプ王子だった建物が残り、『中央公園文化センター』として北区民に利用されている。

下の画像は2010年の中央公園文化センター。

キャンプ王子だった北区中央公園


■北区ホームページ内 中央公園文化センターへのリンク
http://www.city.kita.tokyo.jp/docs/service/003/000391.htm


以前のエントリー『真夏の散歩in7月 【@北区中央公園】』でもここを訪れたことがあり、この建物は目にしたことはあったが、その時にはこのような歴史をたどってきた建物だということは全く知らずにいた。
今回、本レポートを書くにあたり改めて中央公園文化センターを見てきたが、やはりそういった背景を知ったのちに見た建物からはこれまでとは違った雰囲気が感じられた。


北区中央文化センター壁のレリーフ





[3]戦後復興期 ~赤羽郷から桐ヶ丘団地の誕生~

このような時代背景の中、東京都及び北区は政府(大蔵省)から払い下げられたかつての広大な軍用地をいかに利用していくかを議論した。

戦後復興期の人口増加と居住区域の不足が大きな問題となっていた折、北区はそれまであった『兵器支廠赤羽火薬庫』をそのまま住居として転用する。この兵器支廠赤羽火薬庫跡の居住区は主に戦火で住居を失った戦災者や外地からの引揚者、またこの地域にいた浮浪者や米兵上陸のあった沖縄からの転居者など、縁もなく境遇も全く異なった人々が集まって形成されていったのだと言う。こうして赤羽の地に集まった人々は戦後復興期に「この地を自分たちの第二のふるさとにしようではないか」と団結し、自らこの地を『赤羽郷(あかばねごう)』と呼んだそうだ。この赤羽郷のあった場所こそが後に都営桐ヶ丘団地が造られる場所である。なお、赤羽郷という名称は現在もこの地を走る『国際興業バス』のバス停名として残っている。


今もバス停に残る赤羽郷の名称


赤羽郷の居住棟はもともと人の住む建物ではなく、火薬庫として使用されていた倉庫なのだからその生活環境は非常に悪いものだったという。「廠(しょう)」という呼称が示すとおり、それはもともとが倉庫であるから風呂はもちろん台所やトイレも窓も畳も無く、水道も電気も引かれていない状態だったそうだ。そんな50~70坪ほどの火薬庫1棟におよそ10世帯ほどが居住していたのだそうだ。資料を見ると6畳くらいのスペースに家族9人で寝ていたと寄稿されている方もいた。当初、建物内には世帯ごとの間仕切りもなく、竹などを編んでそこに泥を塗って壁にしていたのだという。(壁とは言ってもきちんと天井までふさがれたものではなく屏風のような仕切りに近かった。)

居住棟として使われたこのような火薬庫は赤羽郷に51棟あった。
もともとが火薬の貯蔵エリアであるから、誘爆を避けるため一つ一つの火薬庫それぞれが4~5メートルの高さに盛り土された土塁(土手)に囲まれていて、その土塁に掘られたトンネルを通って人々は移動していたのだという。赤羽郷居住者であっても迷ってしまうような造りであり内部の様子が良く分からないことや、居住者の中には素性のはっきりしない人もいたため外部の人達は気味悪がってほとんど入ってくることがなかったと言う。このような環境にあったため、赤羽郷の人々はいわれのない差別を受けることもあったのだそうだ。


赤羽郷の姿01


赤羽郷の姿02

※上の2枚は赤羽郷の実際の写真です。土塁やトンネル、廠の簡素な作りといった赤羽郷のイメージをつかんでいただくために「桐ヶ丘35年史」より転載しております。実際の画像を見ないとこの赤羽郷の生活はリアルに想像できないという理由からですが、使用が不適切であるとご指摘をいただいた場合にはすぐに削除いたします。上の廠1棟に10家族が住んでいる様を想像してください。


昭和27年(1952年)4月、赤羽郷内に小学校創立
当時周辺に桐の木が多かったことから『桐ヶ丘小学校』と名づけられる(桐ヶ丘小学校の校章も桐をあしらったものだ)
同年10月、東京都は赤羽郷エリアの都市開発計画を発表。「グリーンハイツ都営住宅」建設計画として策定。
昭和29年、赤羽郷にあった小学校の名前から計画名称を「桐ヶ丘文化住宅」建設計画に変更
昭和30年、赤羽郷に最初の団地棟が建つ


こうして戦後から赤羽郷で暮らしていた人達の生活は大きな転機を迎える。





[4]高度経済成長、そして現在 ~あこがれの団地生活~

一般的に日本の高度経済成長期といえば昭和30年からオイルショックまでの18年間を指すことが多い。
戦後の異常(カオス)な状態からやっと日本が復興し、世界でも類を見ない発展を遂げていく時代だ。
東京タワーが完成し、テレビ放送はカラー化が進み、新幹線が走る日本。そしてオリンピックや大阪万博が開催される。これ皆この頃に起こっていた事である。

そんな成長の時代に桐ヶ丘団地もどんどん完成していく。

東京都はこの地に当時では日本最大の団地を作る計画を発表する。
※当時は団地という表現はまだ無く、集合住宅と表現されていたそうだ。
それまで木と紙でできた小さな平屋の家に住んでいた日本人はコンクリートで固められ、見事に造成された巨大な団地という空間での最先端の生活に強烈に憧れを抱いた。団地に住み、三種の神器と言われたテレビ、洗濯機、冷蔵庫を揃えた生活がステイタスだった時代だ。
特に桐ヶ丘団地は国内最初の大規模団地であったことや、隣接する陸軍被服本廠跡地に赤羽台団地も建設されたことで団地の町、最先端の町として名を馳せることとなる。※余談ではあるがこの赤羽台団地も団地マニアにはとても人気の高い団地だそうだ。人気が高いのもうなずけるオリジナルの空気を持っておりこちらも良い散策スポットである。そちらの魅力についてはまた別の機会にいずれ。

居住棟完成当初、この都営住宅は抽選によって入居者が選ばれたが人気のある部屋は100倍以上の競争率になることもあったのだと言う。それは一例にせよ、昭和30年代後半頃の都営住宅の入居平均倍率は40倍を超えている。いかに団地に住みたい人が多かったかということが分かる。もちろんこれは単純に最先端の団地生活にあこがれて入居を希望する人だけでなく、住宅難だった当時に「安く、綺麗で丈夫な家に住める」という理由から入居を希望する人も多かったのだ。

そうやって団地に集まって来た人々は自分たちの暮らしがより良くなるよう自治会を作り、ルールを決めていった。
昭和45年(1970年)頃からは第2次ベビーブーム時代となり、団地内は子供であふれるようになる。また、新たな居住棟の完成によって次々に家族が入居し、都市計画どおり巨大団地となっていく。団地内にある桐ヶ丘小学校の児童数推移を見ると昭和50年までは児童数は増え続ける一方であった。(ただしその年をピークに児童数は現在も減少の一途をたどっている。)
兎も角、子供の多かったこの時代には団地が企画した仮面ライダーショーや夏祭りなどが団地内の公園スペースなどで頻繁に催されていたのだという。遠くに出かけることなく買い物も、娯楽も団地内で済ませる事ができたのだ。


創立記念誌も桐ヶ丘の大事な歴史資料


このように活気のあった都営桐ヶ丘団地の状況が徐々に変化していくのは第2次ベビーブーム以降だ。
小学生だった子供たちは次々に成人し、居を新たに構えこの団地を出て行くようになる。親たちはこの団地に住み続け、高齢者が多くなる。ベビーブーム期は去り、生まれてくる子供の数も減少していく。
これが繰り返され、W1号館のできた1956年から、今年2010年で54年が経過した。
そういった人間流出の末、現在の桐ヶ丘は高齢者ばかりになっている。
(なおこの高齢者増加の傾向は北区全域で大きな問題となっている。参考までに東京23区の年齢別人口割合を区別に見ると、80歳以上の女性の割合が最も高いのは北区で、80歳以上の男性の割合も2番目に高い。)

主に昭和30年代に作られた建築物も老朽化が進み、住らし辛い居住棟は補修、改修工事が行われたり、取り壊されて新しい高層住宅棟が建てられたりしている。

これが現在の都営桐ヶ丘団地が置かれている状況だ。




[5]都営桐ヶ丘団地の魅力 ~とらえかたの一例~

北区の発展から都営桐ヶ丘団地の現在までを長々と書いてきたが、都営桐ヶ丘団地のどこが魅力なのかと問われればそれはいくつも存在するが、強いて1つを挙げるとするならばやはり現在の桐ヶ丘団地の姿から過去が想像できるのが一番の魅力だと考える。誰も人がいない公園に子供があふれる様を想像してみるなどそういうことだ。ある種のタイムマシンというか、時間を過去に切り替えるスイッチになると言う感じだろうか。
私は北区の歴史や日本の過去など、都営桐ヶ丘団地を通して多くの事を学ばせてもらっている。


美しい桐ヶ丘団地


また、そんなコムズカシイ話は別にして単純に「緑が綺麗で独特の雰囲気のある特異な空間」としてこの広大なエリアを楽しむ事もできる。古い建築物が好きな方にはちょいと崩れかかっている古い館棟や街灯に残されたレアプレートを。団地マニアな方には後付けバスユニット棟や増築に次ぐ増築でカスタムされまくっている研究施設風館棟だ。まだまだあるぞ。団地内の庭にある植物の数も半端ではない。ガーデンマニアな方は40年物の樹木やコケ類の繁殖を楽しむこともできる。「桐ヶ丘団地にある植物の種類数について」というテーマで夏休みの自由研究もパーフェクトだ。そうだ忘れちゃいけない。給水塔施設も見逃せない魅力だろう。


そういった都営桐ヶ丘団地の魅力を今後数回にわたって別エントリーでまとめていこうと思う。
少しでも多くの方に桐ヶ丘団地の存在が伝われば幸いである。


以上、都営桐ヶ丘団地への感謝の気持ちを込めて序章を閉める。



2010年7月30日 Fri.  闊歩マン






<参考資料>

・東京航空写真地図北区 (昭和29年)
・北区の歴史 東京にふる里を作る会 (昭和54年)
・桐ヶ丘三十五年史 桐ヶ丘三十五年史編纂委員会 (昭和56年)
・北区郷土資料調査報告第一号 (昭和58年)
・北区の交通 北区教育委員会 (平成2年)
・桐ヶ丘創立40周年記念誌 北区立桐ヶ丘小学校記念誌編集委員会 (平成4年)
・北区郷土史 北区史を考える会 (平成5年)
・団地ライフ 北区飛鳥山博物館 (平成15年)
・写真で語り継ぐ平和の願い 北区総務部総務課 (平成18年)
・写真と地図で読む!知られざる軍都東京 洋泉社 (平成18年)
・東京第一陸軍造兵廠の軌跡~埼玉と東京を中心に~ ふじみ野市立上福岡歴史民族資料館 (平成19年)
・昭和30年・40年代の北区 三冬社 (平成21年)
・北区平和マップ 北区総務部総務課 (平成22年)


※東京第一陸軍造兵廠の軌跡~埼玉と東京を中心に~は平成19年9月29日から同年11月25日まで、埼玉県ふじみ野市のふじみ野市立上福岡歴史民族資料館で行われていた『東京第一陸軍造兵廠の軌跡~埼玉と東京を中心に~』展の図録となる。
※団地ライフと北区平和マップを除く全ての資料は北区中央図書館の蔵書を利用している。
※団地ライフは平成15年10月25日から同年12月7日まで、東京都北区の飛鳥山博物館で行われていた『団地ライフ -「桐ヶ丘」「赤羽台」団地の住まいと住まい方-』展の図録となる。都市計画の図案や建築物の立面図、平面図(間取り)なども載っており、最近団地建築物に興味を持ち始めたばかりの今の自分にとってはまるで教科書のような資料(笑)だ。これによるとドア、窓、ステンレスの流し台や便器など、使い回しが効くように規格化されたパーツのことを『公共住宅用企画(KJ)部品』というのだそうだ。勉強になった。この『団地ライフ』は北区中央図書館で借りる事もできるし、JR王子駅に近い「飛鳥山博物館」で販売もされている。企画展見たかったなー。いや、本当に。
※ためしにKJ部品で検索してみたところ、UR都市機構のページで以下のようなpdfを見つけた。KJとBLだそうだ。むう、この世界はなんだか深くてハマってしまいそうで怖い。(笑)
気になった方はpdfをご確認ください。ファイル内には1960年代、1970年代の公団のキッチン写真が載っています。高度経済成長期の団地住まいスタイルのイメージがより鮮明に伝わると思います。
pdf直リンクURLはコチラ ↓

■街にルネッサンス 独立行政法人都市再生機構 都市住宅技術研究所ページ内
 住宅設備の変遷モデル(pdf)
http://www.ur-net.go.jp/rd/corner-p/pdf/ur2006rd010-07.pdf



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消えゆくもの【02】 北区赤羽の木造2階建物件



2010年7月17日(土)。

消えゆくもの【01】 板橋区稲荷台の家屋』のエントリーでも書いたが、この日は気温が30度を余裕でオーバーする夏真っ盛りな陽気。関東の梅雨明け宣言もこの日、7月17日に出されたという暑い1日だった。

そんな天気に3po魂を刺激されまくっていた俺はこの日、日の出から日没まで一日中北区内を歩き回っていた。



そんな折・・・・・JR赤羽駅の近くでのこと。



JR赤羽駅から400メートルほどの地点に独特のオーラを発する魅力あふれる物件があるのだが、今回もそのイカした風貌を拝んでから赤羽駅から離れた方向に足を向けようとしていた。

その建物は終戦後に建造されたと思しき木造2階建て物件で、重ねられた年月によって人為的に作り出そうとしても絶対に出せない雰囲気を持っている建物だ。

新幹線の高架を左手に見ながら北方向へ道沿いに進んでいくと、マンションに囲まれた中に強烈な存在感を発しているその物件が見えてきた。(下画像中央やや右手にあるのが該当物件)



赤羽駅から北に進む



建物の前まで来て足を止め、カバンからペットボトルを取り出しゴクゴクと飲み物を飲み干して、落ち着いたところで改めて建物に目をやった。



これがその建物。圧倒的な存在感。



どうだこのツラ構え。やはりとても惹かれる!



2階上部と1階のドア部分に入るブルーのラインが青空と作り出すコントラスト。
いくつものストーリーが自然に妄想できてしまうその壁の経年劣化。
そこにはつらい事も悲しい事も、うれしい事もたのしい事も全てを内包したうえで許容してくれそうな深さがある。
商店の中にはスナックや居酒屋もあるのだが、これまでに何万人がここでくだを巻きへべれけになったのだろう。いったい何人のホステスが男に振られ、ママの懐を借りて涙を流しただろうか・・・・・。


・・・・ちょっと妄想しすぎか?(笑)
でもこの種の古い建物を楽しむ際に、想像力は絶対に必要だ。


細部も確認しようと建物に近づき画像に残す。まずは中央の太いブルーラインが引かれた一番大きなドアからだ。



建物中央のドア部分



まるで修悦体のようなフォントを目にしてニヤリ。

修悦体を思わせる描き文字

※修悦体(しゅうえつたい)とはフォントの名称の事。このフォントの形状やその成り立ちにほれ込むファンが多い事でも有名です。詳しく知りたい方はリンクをどうぞ。

■Wikipedia 佐藤修悦の解説
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E4%BF%AE%E6%82%A6

■トリオフォー 修悦体に関するページ
http://trio4.at.infoseek.co.jp/life/index.html
ウィキよりこっちのほうがぱっと見て修悦体がどんなデザインなのかが分かります。



東京で電話番号が10桁化されたのは1996年のことなので、この看板はそれ以降にペイントし直されたものだということは分かる。仮に1996年作成とすれば14年前に書かれたもの。ちょっと時代が早すぎたようだ(笑)



そんな部分も楽しみ、ニヤニヤしながら、パシャリとシャッターを切った瞬間、血の気が引いた。

ドア右寄りに張り紙が・・・・

なんだこれは!



ついにこれが貼られていた



流れ落ちる汗もそのままに、呆然と立ち尽くして『解体工事のお知らせ』を読む。



解体寸前



解体開始は2010年7月19日(月)。
2日後じゃないか。なんてこった。

完全に解体されて更地になってしまう前のタイミングでこの建物を目にできたことを幸運と思うべきか?
多分これが俺とこの建物の最後の対面だ。



解体2日前の建物



またひとつ、記憶に刻まれた風景が無くなってしまう。

茫然自失しながらも、ならばもっとデータに残しておかなければと気持ちを切り替え、更にその姿を撮ってゆく。



住宅として利用もされていた



つい最近まで住居として使われている部屋もあった。住人はどこにいったのだろうか。



実はもう一本描かれていたブルーライン


もう一方の引き戸。
かつては足元の辺りにも、もう一本ブルーのラインが入っていたようだ。

基礎が浮いているようにも見える。
地面に石(土台)を置いて、その上に建築物を乗せているだけという状態もありえるのではないかと思えてしまう。


2階の窓に目をやれば、柵にはなんともほほえましい細工。
何回転もして(時代が流れて)逆に現代的に見える。



何回転もして現代的に見える飾り



建物北側(赤羽駅から遠いサイド)方向からこの建物を見るとまた違った印象を受ける。
こちら側には居酒屋とスナックがある。



逆方向からの眺め



屋根の頂点にあたるちょこんと突き出した△部分にもトタンが張ってある。もともとここは『面』として使われていたような気がする。トタンが張られる前は看板スペースだったのかもしれない。



建物北側の2階部分



その雰囲気から少し映画館のような印象も受ける。
戦後、赤羽には複数の映画館があったと聞いた事があるが、その位置までは分からないためここが映画館であったかどうかは不明である。



2010年7月19日、使命を終えて解体



町の人々は特にこの建物を気にする様子はない。普段と同じ時間が流れているだけである。




こうして何枚かの画像をカメラに収めると、最後に肉眼にしっかりこの建物の姿を焼きつけてまた目的地に向かって歩き出した。


赤羽駅から5分程度の場所のオハナシ。


使命を終える2日前の姿だった。




おつかれさま。





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消えゆくもの【01】 板橋区稲荷台の民家



2010年7月17日(土)。

クラクラするような日差しのもと、北区内を散歩しまくっていた。

1日中歩き回り、午後4時半を回った頃には板橋区稲荷台(JR埼京線十条駅のある北区十条に近いエリア)の魅力あふれる路地を攻めていた。



こんな路地を攻めていた




タオルで汗をぬぐいながら細い細い路地を歩いていると、とあるボロボロの物件の壁にこんなものが貼り付けられているのを発見する。



目に止まったのは解体工事のおしらせ




解体工事のお知らせ。




横を向いて建物を確認すると・・・・・・



なかなか年季の入った物件




なるほど。なかかなに年季が入っているようだ。



もう一度解体のお知らせに目をやって、ちょっとどきっとした。



なんとこの世から消滅する3日前




工期は平成22年7月20日から平成22年7月27日までとある。



このあたりは戦時中の空襲に遭っている地域だ。

戦後すぐに建てられた家屋と仮定すれば65年ものの物件だ。

そんな建物がこの世から消滅する3日前に俺は偶然にこの建物を初めて目にした。
この建物と俺はそういう縁だったのだ。



最期を看取るじゃないけれど、なんだかこの建物を記録に残してあげようという気持ちが湧いた。



まずエントランスのアプローチ。



アプローチはこんな感じ



どうしてこんな形状なんだろう。設計の意図が分からない。



視線を上げ建物の方を見ると何度も増改築が繰り返されているのが分かる。
もはやどこまでがオリジナルだったのか判別が難しい。



かなり何度も手を入れている



エントランス左手の建物。



なるほど。オーナーは何度くらい変わったのだろうか。



エントランス左手家屋_01



オリジナルの土塀にはかなりダメージがある。確かに危ないように見える。



エントランス左手家屋_02



少し視線をおろすと・・・・。


エントランス左手家屋_03



増築部分にはドアが付けられている。利便性を上げた結果か。



一方、振り向いてエントランス右手を見れば手作りの物干し台。なかなかに器用だ。



エントランス右手は物干し場



こちらは 母屋。



もう一棟の母屋_01



もう一棟の母屋_02



もう一棟の母屋_03



路地を5メートルほど進み、別の角度から撮ったエントランス左手の建物。

左手の建物のここにも玄関がある。



左手の建物を別の角度から



これは裏口ではなく母屋とこの建物に後年別の人間が住んでいたということだろう。








その他、ディテールはこんな感じ。




母屋の玄関上



水道管のバルブだけが新しい



さようなら



十条駅から7~8分の場所のオハナシ。

あさって崩されます。



さようなら。




※俺の散歩画像ハードディスクの中にはデータ化の機会を待っているこのような画像がたくさんあります。
少しずつでもまとめていきたいと考え、新たに『消えゆくもの』としてシリーズにしてみようと思います。





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インターミッション



このところちょっとワケがあり、赤羽によく行く。



数日前まで赤羽は七夕で町の中が盛り上がっていた。



赤羽で遭遇したもの



年に一度の逢瀬を存分に利用する赤羽の人々。



赤羽で遭遇したもの




いいぞナカジマ!俺にも宝くじ当たっちゃえばいいのに!




赤羽で遭遇したもの




えっと・・・・・あれ?ナカジマ?





赤羽で遭遇したもの




ナカジマぁ、おま・・・・・





ちょっと友達になれそうな気がした(笑)





別の通りではこんなバンブーメッセージが。

























赤羽で遭遇したもの







で、俺にどうしろと?







赤羽め、面白いところたくさんだな。






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魅惑の立石画像たっぷりでお届けする前編からの続き。




京成本線高砂(たかさご)駅から散歩を開始して柴又帝釈天を楽しみ、金町(かなまち)を経由して立石(たていし)に到着した頃には、幸い降り続いていた小雨もあがり傘をささずに歩き回れるようになっていた。




いよいよかねてより訪れたいと思っていた「立石」に到着と相成った。

高校球児にとっての甲子園、鉄道ファンにとっての交通博物館、将棋指しにとっての将棋会館といったところだ。




・・・・いや、それはちょっと言いすぎかもしれない。

でもそれらに類似する感情を抱きながら、とても感慨深く生まれて初めて立石の地を踏みしめたワケだ。




京成線立石駅に到着




まずは駅前の街区板と手持ちの地図とコンパスで自分の位置とおおよその町の作りを把握する。




現在位置再確認@立石01



現在位置再確認@立石02



現在位置再確認@立石03



このエントリーの前編で「立石の魅力は唯一無二」と書いているが、立石のどういった部分が魅力的なのかと問われれば、概して言えば『仲見世と呼ばれるアーケード商店街とその周辺エリアにかかわって生活する人たちの生活感』にあると言える。(もちろんそれ以外にも素敵なポイントは多々ありますけれども。)


ではその立石仲見世とはどのようなものなのだろうか。


事前に調べておいた情報によると、立石の仲見世アーケードは1960年(昭和35年)に整備されたとのこと。今から50年も前の話である。時は東京オリンピック開催が決定し、東京中で異常な開発が無造作に行われていた時代である。
この時代の大きな出来事をざっとすくってみると・・・・


1958年(昭和33年)12月 東京タワー完成
1960年(昭和35年) 9月 カラーテレビ放送開始
1962年(昭和37年) 5月 東京都世界初一千万人都市宣言
1964年(昭和39年) 9月 東京モノレール開通
1964年(昭和39年)10月 東海道新幹線開通
1964年(昭和39年)10月 東京オリンピック開催
1969年(昭和44年) 7月 人類初の月面着陸および他天体からの帰還 [アポロ11]



と、このような時代である。
永井荷風が亡くなったのも1959年(昭和34年)だそうだ。へえ。

東京オリンピックの開催を利用して日本の国力を世界に示そうと、日本全体が「イケイケ」だった時代であり、民衆は高度経済成長の恩恵をたっぷり受けていた頃である。同時期に完成したこの商店街も当時はさぞ最先端で誇らしいものだったのだろう。

調べてみてちょっと興味深かったのは立石仲見世と、浅草雷門はどちらも1960年(昭和35年)に完成している点である。この時代、浅草や墨田、葛飾エリアもガンガン開発されていたであろう事は想像に難くない。
※補足:浅草雷門は慶応元年(1865年)に焼失しており、明治、大正の時代には存在していない。現在浅草寺にある雷門はこの昭和35年再建時のもの。

そんな時代の華やかな商店街が開発の波に飲まれずに現在まで存在し続けているのがここ立石なのである。
例えば山手線の駅を例に考えてみた場合、当時の建造物が数件残っているとか、意図的に保存している建物は残っていても50年前に作られた町並みがそのまま残存している駅などありはしない。

このような理由で立石という町は「唯一無二」であり、昭和の時代の建物や文化を感じるのが好きな人間にとっては聖地とも言える憧れのエリアになっているのだ。



この聖地はどんなものを見せてくれるのだろうと期待を膨らませながら、いよいよ立石を歩き始めた。



ついに立石の地に足を踏み入れた



まず足を向けたのはやはり「立石仲見世」。
非常に楽しみである。


なおコチラ は立石仲見世商店街ホームページで公開されている店舗配置図。ありがたいです。



立石仲見世商店街ホームページにあるマップ

※この画像は立石仲見世商店街ホームページにて公開されている商店街マップ。画像貼り付けのため画像内のテキストリンクは生きていません。なお、上のマップ画像は立石仲見世商店街ホームページにリンクしてあります。



仲見世商店街は立石駅のすぐ横にあった。
やはりそこには異空間と表現したくなる空間が残っていた。自分の普段の生活圏とはまったく違うエリアだということもそう感じさせる一因なのだが、やはり50年前に作られた建造物がそのまま残るこの雰囲気は独特だ。



ついに立石仲見世商店街にやってきた



画像を交えて仲見世を見ていこう。
仲見世アーケードの入り口を見上げると緑の地に赤字で「立石仲見世」の文字。
やや興奮しながら視線をおろしていくと・・・・



立石仲見世商店街に感動



いやー、痺れるなー!

どうですかこの雰囲気。


仲見世の全長は約120m。
3m程度の道幅(狭い部分では2m程度)の左右にはびっしりと店舗が並ぶ。
退色した黄色、緑、赤の歩道タイルがまたオリジナルの雰囲気を作っている。



足元からも得意な雰囲気が漂う



「ヤバイ、これは興味深すぎる!」

と興奮し、ニヤケヅラで商店街の奥に進んでいく。
進みながら商店を見ていけばこれまた素敵な雰囲気。



良い年季の入り方


なかなか見ることのないタイプの店舗看板に俺釘付け(笑)
ガラスの裏側から文字を書き、色を塗り、それを枠にはめ込んで店頭に掲げている。言ってみればアニメのセルと同じ手法だ。

「こんなの見たことねーよ!」と興奮は続く。

歩みを進めていくとあることに気が付いた。
この通りは閉まっている店舗が非常に多いのだ。



シャッターの閉まっている店が多い




今回の散歩で自分が立石を訪れたのは日曜の午後
どうやら居酒屋や雑貨屋など、日曜日には営業していない店が多いようなのだ。それ故この仲見世アーケード通りの人通りは非常に少ない状態であった。

人通りが少なかったためゆっくりと建物の様子や雰囲気をカメラに収めることが出来たのは非常に良い点だったが「いつもの町の雰囲気、立石の日常」というものが体験できなかったのは少々残念だった。
酔っぱらいがあまりいない立石というのは本来の立石の姿ではないハズだ。またいずれ改めて平日の夜の立石を体験しに行きたいと考えている。


話を戻そう。


仲見世の中ほどまでくると小さな十字路にぶつかった。

これは素晴らしい。

いろいろな所に魅力が溢れている。





立石仲見世なかほどの異空間のような魅力的な情景





アーケードの屋根にむき出しで取り付けられた蛍光灯。
六角形と四角形で構成されるいびつな立方体の街灯。
むき出しになった骨組みも深い味を生んでいる。
時計の左手の鉄柱に取り付けられているのは火災報知のベルだろうか。
こんな時間から「やきとり」「おでん」の赤提灯が主張している様もまたウレシイじゃあないですか。
時計右手の「東榮信用金庫」のフォントもアーケードの雰囲気と相まって非常にカッコヨク見える。昭和40年代の香りがむせ返らんばかりである。



ディテールも見逃せない



でもその「東榮信用金庫」の上にある5つのスタートシグナルのようなものはいったい何なのだろう。こんなディテールはこの町でしか味わえない。いやぁ、面白い。


こういった魅力的なものを見逃さないよう、ゆっくりとアーケードを進んでいく。



やはり閉めている店が多い


なるほど。2階部分を見るとよく分かるが仲見世の建物は全て繋がっている。
1店舗ごとに個別に建てられたのではない。
この『仲見世』を作ろうと図面を引いた時からこの通りはずっとこの長さ、この幅だったという事にはっと気付く。





しばしの間通りの真ん中に立ち、ゆっくり仲見世を見回す。

このテイストはやはり唯一無二だ。





立石は「呑んべ天国」とも呼ばれるように古くから続く居酒屋、焼き鳥屋、モツ屋といった店舗が多いのも特徴で、この通りにも多くの「呑める店」が存在していた。



酒好き万歳な町である(笑)



赤提灯が呑んべえを誘う



外は明るいが店内にはもう人がいる



コチラはちょっと現代風な店構え



自分も呑みたい衝動にかられつつ、町の散策を優先して先へ進んでいく。

こちら ↓ は立石で1~2を争う人気店のモツ焼き「うちだ」。超有名店だ。



立石一の有名店「うちだ」



このお店を目的に遠方からもわざわざ人が訪ねてくるという名店で、平日は並ばないとまず入店できない程の人気店であると言うがやはりここもシャッターは閉まっていた。入店して飲食をしないまでも、呑んでいる人たちの活気や店の雰囲気を味わえなかったのは残念だった。

立石は呑んべの町と書いたが、もちろんこの商店街はきちんと庶民の台所としても機能している。

下の画像のような商店もある。



生活感あふれる立石仲見世商店街01


生活感あふれる立石仲見世商店街02



お惣菜が並ぶ個人経営店舗だ。
見ていると次から次へとひっきりなしにお客さんがやってくる。
こういった立石の日常を見てまたニヤリ。



生活感あふれる立石仲見世商店街03



生活感あふれる立石仲見世商店街04



なんだろうこのカッコ良さは。
もし立石周辺に住んでいたならば絶対に利用しているだろう。


漬け物コーナーもいい感じ。
ある意味「アジアンテイスト」とも言えるのではないだろうか。うむ。



生活感あふれる立石仲見世商店街05



こんな珍しいスタイルも見ることができる。 ↓



通りの右側に注目


はじめて見る立ち食いすし屋



お分かりになるだろうか。

看板を見ると「立喰専門」の文字。そしてのれんに目をやれば「栄寿司」とある。

なんですと?立ち食い寿司とな?



立石栄寿司に驚く



おお、本当だ。
店内には立っている人がいる。こんなスタイルは初めて見たよ。
しかもきちんと職人さんが握ってくれる寿司にしてこのリーズナブルな価格設定。

考えてみれば元来の江戸の寿司ってのは屋台の立ち食いだったのだからこのスタイルはある意味「正当」と言えるのかもしれない。トラディショナルスタイルだ(笑)
カッケーなぁ。







ビリビリ来る光景はまだまだ続く。







立石には仲見世のほかにもう一本チェックしておきたい路地がある。

『呑んべ横丁』と呼ばれる細い細い路地だ。

その通りの名前が現すとおり、居酒屋やスナック、バーがギチっと密集している。

その路地がどれだけのインパクトを持っているか、じっくりと以下の画像を楽しんでいただこう。


魅力あふれる立石の路地01


ああ、チクショウ。

こんな素敵な路地を見せられて落ち着いていろって方が無理な話なのだ。

立石の裏路地で興奮してシャッターを切る男ここに在り。それもすごいアガり方で。(笑)



まず注目したいのは上の画像の右上部分。

おや、何か文字がありますね。

むき出しのトタン貼りの壁に直接ペンキで描かれた看板。


立石に残るトタンカンバン


赤地のペイントの上に右から左に「アカカンバン洋服店」と読めるその看板は経年劣化とオリジナルフォントによって見たことも無い雰囲気を作り出している。この画像だけを見たらどう見ても2009年に写したものとは思えない。
その昔この建物は作業服などを売る店だったのだろうか?

立石仲見世商店街アーケードが整備されたのは昭和35年と前述したが、この看板はもっと古い時代のものかもしれないなぁと考えながら俺のSDカードに風景をどんどん記録していく。


マテリアルの質感も楽しみながら細い路地を更に奥へと進む。


呑んべ横丁なのにチリひとつ落ちていない。


これはすごい。綺麗に保とうと意思を持った方がいるって事だ。


魅力あふれる立石の路地02


次から次へと魅力的な光景が現れる。


魅力あふれる立石の路地03


周りの店全てが呑み屋。

すごい造りだなぁ、建物。


魅力あふれる立石の路地04


この通りにいるとまるで映画のセットの中にいるような感覚を覚える。



ああそうか、この通りに俺以外に誰もいないからだ。



すごい非日常感。



魅力あふれる立石の路地05


強いて言えばこの感じは新宿の『思いで横丁』に近いだろうか。

参考までに、下の画像は2008年10月25日の思いで横丁。 


新宿『思いで横丁』


でもやはり、思いで横丁は近年開発の手が入ったせいもあり、やや観光客寄せ目的の雰囲気が強い。必要以上にデコレートされてしまっている感じだ。よく言えば「敷居が低い」と表現できなくもない。


魅力あふれる立石の路地06


対して立石のソレはナチュラルなのだ。

この雰囲気にどっぷり浸かりながら探索を続ける。


魅力あふれる立石の路地07


「青空」と書かれたスナックの前で頭上を見上げれば薄いブルーのタキロン製の屋根。青空と言えなくも無い。

※なお『タキロン』は正式には『ポリカーボネイトナミイタ(波板)』という呼称らしい。勉強になった。

タキロンとはこれのこと


ポリカーボネイトナミイタマニアなあなたにはタキロン株式会社の建材ページURLをプレゼンツ!
タキロン株式会社ポリカーボネイトナミイタ


昼間の呑み屋街に人がいないのをいいことに、何度も通りをウロウロして思う存分この街並みを楽しんだ。

この呑んべ横丁が新宿の思いで横丁のように消失してしまわないことを切に願う。
もし火災などでこの辺りが焼失してしまっても、絶対に同じ形では再建されないからだ。そういった意味では2010年7月時点でこの街並みが残っていること自体、ある意味奇跡と言えるかもしれない。



・・・・と、こんな感想を書いた後に先ほどネットでこのエリアの開発事業をちょっと調べてみて愕然。

2009年に再開発計画が発表されているじゃあないか!

参考までに、以下はWEBで見つけた開発計画に関する情報。


再開発施設は、低層部が店舗と業務、高層部が住宅で構成する3棟総延べ約6万8000m2を計画。住宅は約700戸を想定している。
施行予定区域は、立石4-22~26、同7-1、2の約2.1ha。
区域のうち、京成押上線に面する南側部分は、同線(四ツ木駅~青砥駅)連続立体交差事業の用地となる。このため、連続立体交差事業の工事が始まるまでに既存施設を解体する必要がある。



なんてことだ。やはり開発の波に飲まれてしまったのだ。
再開発地域に該当するのは駅の北側エリアのため仲見世商店街は含まれていないが、見事にこの呑んべ横丁は再開発地区の内側。
このまま開発計画が進行すれば数年後にはこの風景は無くなってしまうということだ。
それほどにこの呑んべ横丁周辺の建物は危ない状態にあるとも言えるのかもしれないが。

個人的にはこういった景観が無くなってしまうのは非常に残念だが、そういった感情が起こるのはやはり自分が『観光客的』な視点から町を見ているからに他ならない。
地元に住んでいる方が、汚く、利用し辛く、火災や震災にもすこぶる弱いこの地域をもっと住みやすい環境に変えたいと思う事があるのも理解できる。まあ、今のまんまで何も問題ねぇのになって人もたくさんいるのでしょうけれども。
四ツ木や青砥といった周辺エリアの開発とも平行した計画になっているようなので、葛飾区全体を巻き込むような広域な地域住民の反対運動でもない限り計画が中止になることは無いだろう。
歴史的に意味のある建築物ならいざ知らず、こんなバラックのような建物が移築されるハズもないし・・・・

非常に残念だ。こんなにイカした場所なのに。

この散歩をした時点で再開発計画の事を知っていたら呑んべ横丁の見え方もまた違っていただろう。


なお葛飾区役所ホームページでもこの再開発事業に関する情報がアナウンスされていた。
詳しく知りたい方はリンクからドウゾ。


■葛飾区役所ホームページ内 京成押上線連続立体交差事業紹介(2010/6/18発表)
http://www.city.katsushika.lg.jp/kurashi/017/001721.html

■葛飾区役所ホームページ内 沿線における都市計画事業(PDF直リンクです)
http://www.city.katsushika.lg.jp/previews/000/000/017/1721-5.pdf



そうか、やはりスカイツリー建設で押上(おしあげ)あたりが大規模に開発されることと無関係ではないって事か。


魅力あふれる立石の路地08


そんな再開発計画のことはつゆ知らず・・・・

「立石ってのはまるでアミューズメントパークだな」

と一人興奮しながら、来た道を引き返しひとまず立石仲見世アーケードまで戻る。


魅力あふれる立石の路地09


京成立石駅周辺


これまで昭和が感じられる街並みや店舗を中心に見てきたが、フランチャイズ店舗などが存在する現代的な通りもある。
仲見世アーケードに平行して通っている「立石駅通り商店街」がそれだ。


立石駅通り商店街


仲見世アーケードと比べると道幅も広い。


立石駅通り商店街02

コンビニやファストフードショップ、チェーン系居酒屋、GEO(ゲームソフトショップ)もあるし牛角(焼き肉屋)だってある。この通りだけを見れば自分のホームである北区十条の十条銀座や板橋区大山のハッピーロード大山ととても近しい雰囲気を持っている。


立石駅通り商店街03


人通りの多さを見るに、立石庶民にとってのメイン通りは仲見世アーケードではなくあきらかにコチラだろう。

俺の個人的趣味で古い建物や街並みばかりを画像に残しているが、立石はそういう雰囲気のみではなく近代的な開発が進んでいる部分もあることを補足しておく。
なんてったって立石は葛飾区の区役所所在地なのだから。


立石駅周辺


こうやって立石の町の様子を一通り楽しんだところで以前から計画していた「立石のシメ」を実行することにした。

実は今回立石にきたら是非寄って行こうと決めていたお店があったのだ。

歩き通しで小腹も空き、喉もカラカラ。
これは丁度いいやと、狙いをつけていたお店を目指して移動を開始する。


京成立石周辺


気になった風景をカメラに収めながら目的地に近づいていく。


立石「江戸っ子」


こちらも立石では有名なモツ焼き屋の『江戸っ子』
「立石の関所」という文字を見つけてまたニヤリ。立石に来たら皆がここを通っていくってか?
残念ながらこちらもやはり周囲にある多くの居酒屋と同じように日曜は閉まっているようだった。


しかし自分が行こうと考えているのはこのお店ではない。
「江戸っ子」の外観を堪能し、目的地を目指す。


目的地までの途中にこんなメッセージを発見。


立石で見た俺へのメッセージ


「冷やしたぬき・きつねはじまっていますーよ!!」 だ!


なんて新しいんだ!(笑)

どうやら「~はじめました!!」では駄目なようである。
「はじまっています」と言われれば「ああ、もうはじまっちゃっているのか、乗り遅れないようにしなければ」という気持ちがあおられるという狙いだろうか。「はじまって」辺りの赤ラインでの強調にそういった意図が見える。しかもはじまってしまっているのは冷やし中華ではないと来た。更に言わせてもらえば「はじまっていますよー!」ではなく「はじまっていますーよ!」なわけだ。発音し辛いって。(笑)

アヴァンギャルドなPOPに俺クラクラである。立石ではちっとも気が抜けない。

「今はいらないですーよ!」とPOPに返事をしつつ目的地を目指す。

行きたいと思ってメモしておいたそのお店の住所と電柱に書かれた住所を確認しながら進み、目的のお店を発見。



是非体験したいとやってきたのはここ、「鳥房(とりふさ)」さん。


立石の「鳥房」


こちらのお店も立石ではかなり有名なお店で店内はいつも多くの人でにぎわっているとのことである。
名物は「鳥の唐揚げ」。
とは言ってもお弁当に入るタイプのいわゆる唐揚げではない。
こちらの唐揚げは北京ダックを作る要領で熱した油を何度も何度も鳥の半身にかけて揚げてくれるタイプのもの。
素朴な料理なのだがシンプル故に素材の味が楽しめるというものだ。


鳥房内はすでにお客でいっぱい


この日も店内は満席状態で、10分程店の前で席が空くのを待ってからの入店となった。(10分程度の待ちで入店できたのは幸運なほうらしい)
店の方の案内でカウンター席に案内される。

計画通り入店でき、まずはほっと一息。


盛況


店内はなかなかにぎやか。それぞれが思い思いにこの場所と料理を楽しんでいる。
自分もいそいで鳥を頼む。

鳥が来るまでしばらくの間、ビールで喉をうるおす。
歩き回って疲れた体にビールを投入だ。


ごきゅごきゅごきゅっ・・・・・


まずはビールとお通しでメインを待つ


ぷはぁ、乾いたノドに心地よい。

かねてからあこがれていた立石の町で飲食していることも気分を盛り上げる一因になっている。

お通しに出されたトリ皮の煮物と店内の様子を楽しみながら待つこと15分ほど。
俺の元にカラリと素揚げされた鳥がやってきた。

どんと大きな半身のまま揚げられた鳥を、箸を使ってパーツごとに分けていく。
分解(笑)し終えたところでおもむろにかぶりつく。


鳥房の唐揚げ

モグモグモグモグ・・・・・・

う ・ ま ・ い !


鳥房の唐揚げ。ウマイ!


カワはカリっと。身はしっとり。

柴又帝釈天でだんごを食って以来何も口にしていなかったため、そのおいしさもよりいっそうアップしていたように思う。冷えたキリンもまた格別。


なるほど。立石にはケンタッキーが無いワケだ。


モグモグ・・・・


ビールと唐揚げで俺ご満悦


建物の造りや店内の雑踏を肴に鳥とビールをいただく。

素敵です、鳥房。


鳥房店内で飲食を楽しむ


雰囲気を楽しみながら鳥を完食。
いやぁ、おいしかったです。ゴチソウサマ。


鳥完食。ゴチソウサマ。


店のおばちゃんも「思ったように写真取れた?」ととても親切に気をかけてくれた。なんともハートウォーム(笑)

鳥房のことは今後俺の記憶に残り続けることだろう。


鳥房


なおこの鳥房、イートインだけでなく店頭でできあがった鳥(唐揚げ)の販売もしている。
店舗の1面が上の画像のような飲食スペースへの入り口。
もう1面は下画像のように店頭販売スペースとなっており、店主のオヤジさんが汗にまみれてひっきりなしに鳥に油をかけていた。


鳥房店頭販売サイド


近隣に住む方はテイクアウトして自宅でも唐揚げをを楽しめるのだ。
なんてユーザーライクなんだろう。

お腹も満たされちょいとほろ酔い気分の散歩野郎はおばちゃんにありがとうとごちそうさまを伝えて店舗を後にした。

満足満足。

※以上「鳥房」さん情報は2009年5月のものです。なお前述した再開発エリアにこの「鳥房」も含まれています。残念です。もし実際に訪ねる際には営業しているかなど事前に確認することをオススメします。






これで一通り立石でやりたいことは体験できた。

やはり立石エリアは特筆すべき場所だと実体験にもとづいて認識することができた。
自分にとってはまるで歴史資料館のように魅力あふれる町であった。



もう少し自分のホームエリアに近ければきっと立石には足繁く通っていたことと思う。カツシカン(Katushikan)たちがちょっと羨ましい。




「それじゃあそろそろ家に帰ろうか」と一瞬考えたが、ほろ酔いも手伝ってかこの日はまだまだ歩きたい気分が強く、近場でもう一ヶ所どこかを攻めようと考えた。

そこで次の行き先を考えるため近くにあった神社の横の遊戯スペースにて一休み。

「どっちに向かおっかな~?」と考える酔っ払った俺の目に飛び込んできたのはラッコ型の遊具。


何故お前はそんなペイントなんだ?


でも何故このラッコはドラえもん風のペイントなんだ?

とツボに入ってしまい一人大爆笑。

口の赤ラインがナイキのロゴの反転に見えてしまったり、握りの部分をヒゲに見立てているその造形にガチっと心をつかまれてしまったりでもうゲラゲラ。
しかもこの遊具、またがったままバネで前後にゆらゆらする遊具かと思ったら大間違い。硬い柱で地面にがっちり固定されているではないか!つまりただの椅子ってことか!

くそう、やられたなぁとひとしきり笑い、落ちついたところでこの後の行動を考え始めた。





せっかく普段はほとんど利用することの無い京成線沿線にいるのだから京成線沿線で目的地を設定しようと地図を広げた。
京成線路線図を見ると4駅離れた所に「押上(おしあげ)駅」を発見。

「そうだ、建築が始められたスカイツリーの成長ぶりを見に行こう」

と思いついた。

補足しておくと、この2009年5月の段階ではスカイツリーはまだ現在(2010年7月)のように全国的に浸透しておらず、周辺にも観光客はほとんどいなかった時期となる。ツリー自体もやっと基礎工事が終わり背を伸ばし始めた時期だった。

このタイミングでしか見れないスカイツリー周辺の景色を覚えておこうという狙いだ。




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次の目的地を決めた俺は感動をもらった立石の町に後ろ髪を引かれながら京成線に乗り込んだ。


あまり馴染みの無い京成線


立石から、四ツ木(よつぎ)→八広(やひろ)→曳舟(ひきふね)と移動し、目的地の押上に到着。


押上からまた徒歩


地下にあるホームから地上に出て街区図を確認。
(※押上駅は地下鉄とも接続しているためホームは地下にある。)


押し上げ駅周辺街区図01


この時期はまだ街区図上にスカイツリーの文字はない。


押上駅周辺街区図02


徐々に暗くなってくる中、スカイツリー建設予定地に向かっていくとその巨大な建造物が目に入ってきた。

2010年7月の今となってはもう決して撮ることのできないレア画像が以下となる。


2009年5月24日の東京スカイツリー01


2009年5月24日の東京スカイツリー02


2009年5月24日の東京スカイツリー03


この時点では『土台部分しかできていない』というイメージであったがその巨大さは近づくほどに実感できた。
まさに「メガストラクチャー」と表現したくなる建造物だ。


東武線の車両と共に写る建築中のスカイツリーもまたオツなもの。
現在はもう決してこのアングルでは撮れません。


2009年5月24日の東京スカイツリー04


立石エリアの昭和テイストと押上の超近代開発が楽しめた今日の散歩に満足しながらそのまま徒歩で向島方向に進んでいく。


住所は向島に


せっかく向島に来たならばと、俺の大好きな「鳩の街商店街」を通過して行こうと考えた。
この「鳩の街商店街」という場所も素晴らしい味のある商店街だ。

※鳩の街商店街についての詳細は、以前のエントリー『アウェイを歩く 【墨田区向島・後編】』で詳しくレポしております。


大好きな場所にまた来てシマッタ!


鳩の街商店街の「喫茶エデン」や「田中写真館」など、魅力的な建物の夜の姿をじっくりと楽しみながら商店街を進む。


鳩の街商店街を抜ける02


鳩の街商店街を抜ける01


鳩の街商店街を抜ける03


鳩の街商店街を抜ける04


「やはりこの商店街も素晴らしい」と感動しながら鳩の街商店街を通過。


そのまま浅草方向を目指してお花見で有名な墨田公園を抜けていく・・・・


墨田公園を抜ける


墨田公園を夜散歩


気がつけばもうこんな時間に。


隅田川に着いた時にはもう辺りは完全に真っ暗。

浅草夜散歩。良いじゃないですか。


川からの風が心地よい


隅田川沿いを歩いて川面に写る光でチルしながら・・・・・


隅田川の水面にうっとり


これを渡れば台東区浅草だ。


人通りの少なくなった浅草の町を抜けていく。


東武線浅草駅前


おもいきり深い時間ではないが、既に浅草寺周辺は閑散としている。


夜の浅草01


夜の浅草02


本日2箇所目の仲見世となる「浅草仲見世」も忘れずにチェック。

仲見世のメイン通りではなく、一本横にズレて裏側から仲見世を見たほうが『建造物としての仲見世』の造形が良く分かる。


夜の浅草03


何度も見ているはずの浅草の風景が夜のせいでまったく別物に見えるのもまた嬉しい。


夜の浅草03


さすが日曜の夜。浅草の飲み屋街がこんなに閑散としている様は初めてだった。


夜の浅草04


浅草風景でまったりとクールダウンしながらこの日の散歩は終了となった。


夜の花やしき










東京に暮らし始めて18年目にして立石を初めて訪問したわけだが、そこは噂に違わぬオリジナルな味のある町であった。
今になって思えば北口再開発工事が実際に開始される前にあの空間を体験できて本当に良かったと思う。





高砂→柴又→金町→立石→押上→向島→浅草と、全行程10時間ほどのロング散歩ができたことに満足感いっぱいの俺。
ここちよい疲れを感じつつ、三ノ輪橋から都電に乗って帰宅。



本日の散歩終了




ありがとう葛飾、ありがとう立石。
次は是非立石でベロベロになりたいと思う。






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