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■まえがき


東京都北区にある『滝野川(たきのがわ)』という地域をご存知でしょうか?
このブログでも過去のエントリーで滝野川の事を何度か取り上げています。

例えば都内でも有数の古銭湯である『稲荷湯』さんがあるのも滝野川。
参考:東京湯族(Tokyo 湯 tribe) 【4】北区滝野川・稲荷湯
http://3pomaniax.blog116.fc2.com/blog-entry-99.html

大正初期に建築されたオキニイリの古民家が消滅してしまったという話を書いたのも滝野川のことです。
参考:消えゆくもの【03】北区滝野川6丁目、旧中仙道沿いの古民家
http://3pomaniax.blog116.fc2.com/blog-entry-102.html

上記の稲荷湯さんや滝野川6丁目のエントリーの際にも少々触れていることなのですが、現在、東京都北区滝野川という地域は大きな開発の手が入ったり、戦後から残存してきた住宅が老朽化に耐えられずどんどん消えていっている地域です。
詳しくは後述していきますが、滝野川という地域のその特殊な成り立ちも影響して、それまであった純然たる昭和の風景(個人的にはそれを『オールドスクール』と表現したい)が急激に失われていっているのです。そこで十数年後には消滅してしまうであろうこの滝野川の『ド昭和風景』をデータに残しておこうと思い立ちました。

滝野川は現在自分が住む場所の近隣地域ということもあり、以前からよく画像を取りためながら散歩をしていた地域ではありますが今回このエントリーをまとめるにあたり、改めて滝野川エリアを練り歩いてきました。主に2012年夏シーズン現在の滝野川の様子を今後数回にわたってレポートしていこうというのが今回のエントリーシリーズの趣旨になります。
ちなみに今回のエントリーは滝野川シリーズの序章的なものなので文章での解説が主になります。滝野川昭和建造物画像のPOSTは主に次回以降のエントリーからがメインになります。

なお、そういったド昭和風景について書き進める前に予めお断りしておきますが、自分がいろいろと撮りためた画像は、滝野川の中でももう残り少なくなってしまった昭和テイストが感じられる画像群です。戦後からあった町並みはどんどん無くなっており、きれいな住宅が立ち並んでいる部分も多いのです。ですので主に次回エントリー以降に貼っていく画像は『意図的に古い建築物の残る町並みを切り取った特異な場面なのだ』という点に御留意ください。現在の滝野川はそういった木造建築のみがあふれている地域ではありません。

滝野川開発

滝野川六丁目計画 工事進行中(2012年8月)
※開発が進む滝野川6丁目 (2012年8月現在)

では、はじめましょう。長いエントリーになっていくと思いますが、まずは北区滝野川の歴史や地理的特色のデータをまとめていきます。ここが把握できていると後に紹介していく建物の『味わい』『感慨深さ』といった所に大きな差が出てきます。
話の途中に出てくる画像や地図を、もっと詳細に知りたいと思った方は画像や地図を個別にクリックしてください。拡大図をご確認いただけます。


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滝野川の地理的特徴
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まずは東京都北区滝野川の位置を把握しましょう。
23区の中心となる皇居から見た場合、滝野川地域は北北西の方向にあたり、距離は直線で約7.3kmの位置にあります。

皇居から滝野川までの直線

番地(丁目)によっても最寄り駅は異なりますが、滝野川地域へのアクセスに適した駅はJR京浜東北線の王子駅、JR埼京線の板橋駅、地下鉄都営三田線の西巣鴨駅、都電の滝野川一丁目電停などです。

北区の中ではかなり南側に位置しており、一部は板橋区や豊島区に隣接しています。例えば徒歩での移動に慣れている方ならば、山手線の池袋駅や巣鴨駅から20~25分程かけて歩いてアクセスする事も可能です。

この地域には上の地図では分からない特徴があります。高低差(標高)の特徴です。
東京都は一般的に西に行くほど標高が高くなります。東京都の西隣の山梨県側から続いてきた山岳部はあきるの市や武蔵村山市辺りを境に徐々に勾配がゆるくなっていき、立川市、国分寺市あたりに来るとゆるやかな台地になります。この立川から都区内まで続く台地は概して『武蔵野台地』と呼ばれます。
この武蔵野台地は小金井市→武蔵野市→杉並区→中野区→新宿区と東に広がっていきますが、滝野川という地域はこの台地の東端に位置しているのです。
グーグルアースに標高のデータを入れて高低差を視覚的に捉えやすくしてみました。

上野台地高低差

おおよそ中心に滝野川を位置させています。これを見ると滝野川の東側(右側)で台地が終わっているのがはっきりと分かります。このように台地の端などで見られる崖状のつらなり部分を『崖線(がいせん)』と呼ぶのだそうです。上の地図内ではこの崖線に沿ったラインの一番下あたりが秋葉原、一番上あたりが埼玉県の川口になります。秋葉原から王子(≒滝野川)、赤羽を通って川口に抜けるというこの崖線のルート・・・何か思い当たりませんか?
実はコレ、京浜東北線の軌道が敷かれているルートなんです。ためしに分かりやすく京浜東北線に該当する部分に赤いラインを入れてみました。

上野台地高低差 京浜東北線書き込み有

京浜東北線が見事にこの崖線に沿って敷かれているのがはっきりと分かりますね。京浜東北線のこのあたりの区間に乗車した事のある方にはイメージを共有していただけると思うのですが、上野から田端、赤羽方面を目指した場合、鶯谷を越えた辺りから進行方向左手側がずっと崖になっているのが分かると思います。参考までに実際に撮ってきた動画をアップしておきましょう。これは田端から上中里の間を走行中の京浜東北線車内から左手の崖線部分を見上げながら撮ったものです。



この崖壁は武蔵野台地の東端にあたる場所なのです。(細かく分類するとこの台地は武蔵野台地の中でも上野台地と赤羽台地に該当するエリアになります)
北区滝野川はこの京浜東北線の西側になります。つまり滝野川というのは台地の上側に位置する地域なワケです。
ちなみにこの上野・赤羽台地の高低差のおかげで田端、王子、東十条、赤羽地域には勾配の急な坂道が多く、散歩時に他では体験できない独特の高低差地形を楽しめる場所でもあります。

上に貼った動画のように台地の下から上側ではなく、逆に田端の台地の上から下を眺めると後述するような風景が楽しめます。今回のエントリー内容の中心である滝野川を少し横に置いて、『北区田端』という部分に焦点をあてた場合に声を大にして言っておきたいのはこういう事。

「北区田端6丁目の田端中学校に通っている皆さん、及び卒業生の皆さん!あなた達が学業を受けた学び舎は絶対に世界で一つの、あなた達だけが味わえた他に類を見ない環境なんですよ!」


北区立田端中学校
参考:北区立田端中学校

はい、本当にそう思います。山手線と京浜東北線にサンドイッチされたこの環境。間違いなく唯一無二です。田幡中学校は崖線上部のへりにある立地なのですが、校舎から東を向いてちょっと台地の下方向を眺めてみれば次に揚げるような風景が目に飛び込んでくる・・・・・こんな楽しさが体験できるのは日本で・・・いや、世界でもあなた達だけなのですよ。断言できますッテ!
ここにはJRの『東京新幹線車両センター』(上野駅、東京駅に発着する新幹線車両の安全確認を行うための待機場)があり、絶えず様々な種類の新幹線が停車しています。また、台地(標高の高い位置)と同じ目線(標高)には東北、上越、長野新幹線の橋梁軌道が走っています。そして目線を下に向ければ湘南新宿ラインと京浜東北線と高崎線が走行しているという撮り鉄っちゃん垂涎のトレインビューポイントになっているのです。
このエントリーを書くにあたって、田端6丁目に実際に足を運んで風景を画像に残してきました。少々時間はかかりましたがうまくタイミングを計ればこんな情景を撮れる地形なのです。

田端6丁目から見る『東京新幹線車両センター』

ちなみに画像に注釈を加えると、上から・・・・
画面右から左に走行中の秋田新幹線E3系『こまち』、その下に
東京新幹線車両センターに停車中の二階建て新幹線E4系『MAXやまびこ』、その下に
同じく停車中のメタリックグリーンが映えるE5系『はやぶさ』、
そして橋脚をはさんで手前側に湘南新宿ラインの軌道。更にその手前に画面左から右へ走行中の京浜東北線という瞬間になります(自分は鉄道にはさほど詳しいわけではありませんので、もし間違いなどありましたらご指摘いただけますと幸いです)。
昨今の風潮もあり、部外者が無断で学校施設に入る事はできませんので敷地外からの撮影となりましたが、東京都北区立田端中学校からは『ほぼ』こんな景観が堪能できるわけです。こんなの見られる中学校なんて他には無ぇんですよ!(笑)
こういった視点からの田端中の特別さがあまりピックアップされていないのはもったいないなぁ。世界でここだけの環境なのに。

ああ、ごめんなさい、ヒートアップしてしまいました。閑話休題。

改めまして、この京浜東北線のラインの東西に高低差があるということが分かる画像を何枚かPOSTします。例えばこんな風景も。
京浜東北線王子駅からおおよそ徒歩10分ほどの位置にある『王子稲荷神社』を例にとりましょう(王子駅のすぐ近くにある『王子神社』ではなく『王子稲荷』のほうです。なおこの王子稲荷は落語の噺、『王子の狐』に出てくるお稲荷さんだと言われています)。


大きな地図で見る


平面図だけではこの場所の特徴が伝わりませんので、簡単にですが、この王子稲荷付近の地形を高低差が分かるように図解してみました。王子稲荷付近の地形ってのはこんな感じになっています。

王子稲荷神社付近 高低差概略図

このように崖線の中腹にお社が建てられているんです。そのため、訪れた人々は鳥居をくぐると頭上に伸びていく石段を見上げるようにしながら登って行き、上に到達してやっとそのお社の全体が見えるという仕組みになっています。実際に鳥居の前に立つとこのように見えます。盛り土をして人為的に丘をこしらえたのではなく、崖線によってこの高低差が生じているのです。

王子稲荷神社へのアプローチ

石段を上まで登らないと見えてこない、ありがたい景色が存在しているというわけです。見事ですね。

王子稲荷神社
※石段を登りきると目に入ってくる王子稲荷神社

画像からも感じられるように台地の崖線は変化に富んでおり、普通に散歩するだけでもこの地域だけの味が感じられる特殊な場所だと思うのです。
例えば下の画像もそんな一例。北区岸町2丁目辺りの崖線が分かる地形です(ちょうど王子駅と東十条駅の中間点の辺りになります。崖線の東側から西方向を見ています)。

王子駅と東十条駅の中間点辺りの崖線

滝野川がこのような台地の上側に形成された集落であるという点は、現在、滝野川が大規模に開発されていることと無関係ではないと私は考えています。以下から滝野川の歴史を踏まえてもう少し詳しく滝野川の特徴を掘り下げてみます。


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滝野川、戦後の軌跡
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では滝野川はもともとどういった土地だったのかを掘っていきましょう。まずは時間をぐっと引き戻し、戦前(昭和初期)の滝野川の状況から見ていきます。

この頃の北区(当時の滝野川区、王子区)は都内で最も多く軍事施設の集まっていた場所でした。北区の土地面積の約10%程が軍用地だったというのですから、住民にとって軍事施設はとても身近な存在だったのです。以前、桐ヶ丘レポートというエントリーを書いた際に当時の軍用地を書き込んだ地図を作ったことがあります。今回はその地図の上で滝野川エリアが分かるように色分けしてみました。地図内で黄色く色づけされているエリアが1丁目から7丁目までを含んだ滝野川全域になります。
※軍用地の区画については個人的に集めたデータを元に、現代の地図区画にむりやり当て込んだものですので細部には正しくない部分もあるかと思います。ご了承ください。

昭和初期軍用地と滝野川地域の位置関係
※画像クリックで地図拡大します

地図の右下から左斜め上に伸びているラインが京浜東北線です。つまりこのラインがほぼ崖線を表しています。右側が低地、左側が高台と捉えてください。

明治~大正時代、軍用地を選定する際にこの地形が大いに考慮されました。駐屯地や火薬庫、兵器工場といった重要な施設を作るには、『敵から攻め込まれづらい地形』であることが重要だったのです。地図を見ると京浜東北線の西側(左側)に、南北に長く軍事施設が並んでいるのが分かります。これらはいづれも台地の上側にあり、攻め入るためには崖を登らなければ到達できない場所に位置しています。当時のことを書いた資料を見ると、陸軍の射撃場や演習場ではこの地形を逆に利用して丘(台地)の上方から低地に向けて射撃演習なども行っていたのだそうです。
また、北区全体を覆うように流れている隅田川と荒川は、天然の"お堀"としても機能しました。

北区岩淵から見る荒川
※北区岩淵の『旧岩淵水門』辺りから眺めた荒川。これくらいの川幅がある。なお川の向こう側は埼玉県川口市となる

「あれ?でもマップを良く見ると京浜東北線の右側にも軍事施設があるじゃん?」と気付かれた方もいるかと思います。しかしこれにも地形的な理由があります。これは軍用地の東側に流れる隅田川を運河として利用するために選定された土地でした。東京第二陸軍造兵廠 堀船倉庫(※廠(ショウ)=簡素なつくりの倉庫)には隅田川と繋がる運河も作られ、船舶による大量の物資運搬ができるようになっていたのです。当時この地に作られた軍事施設(建築物)には赤レンガで作られたものも多くありましたが、この赤レンガも隅田川、荒川の下流となる荒川区や墨田区、葛飾区にあったレンガ工場で焼かれ、船を使ってこの造兵廠に運ばれたのだそうです。

十条自衛隊駐屯地レンガ塀
参考:戦後、当時の赤レンガを流用して作られた現在の自衛隊十条駐屯地のレンガ塀

話を少し戻し、改めて滝野川エリアに目を向けましょう。

昭和初期軍用地マップ(滝野川エリア)

滝野川地域(地図内の黄色エリア)の中心には東京第一陸軍造兵廠 滝野川工場がありました。またそのすぐ北側には東京第一陸軍造兵廠 十条工場と東京第二陸軍造兵廠(一部は現在の板橋区加賀に位置する)が並んでおり、更に滝野川の南側には海軍の下瀬(しもせ)火薬製造所も存在していました(※1)。(ただしこの下瀬火薬製造所での火薬製造は大正3年に廃止され、その後は昭和15年に国立大学である東京外語大学が移転して来るまで火薬庫としてのみ使用された)。特に東京第一陸軍造兵廠 十条工場の南端(滝野川寄り)には施設本部(司令部)となる建物も存在していて軍事的に重要な地点だったのです。なお、余談となりますがこの本部の建物は2012年現在も残存しています。造兵廠 十条工場は現在、自衛隊十条駐屯地になっていますが、その南端エリアは北区中央公園として区民の憩いの場になっています。この公園敷地内に陸軍本部だった建物は残されており、現在は『北区中央公園文化センター』として区民に解放されています。

陸軍施設であった文化センター
現在も残る『北区中央公園文化センター』(昭和5年建造)
参考:北区ホームページ内 北区中央公園文化センター
http://www.city.kita.tokyo.jp/docs/service/003/000391.htm

詳しくは以前に書いた桐ヶ丘レポート第一章に譲りますが、このように重要な拠点のあった滝野川地域は終戦間際になると米軍の爆撃目標地点になってしまいました。東京に於いて、米軍からの空襲と言えば一般的に東京大空襲と呼ばれる昭和20年3月10日の江東区深川地域の被害が有名ですが、同年4月13日にはこの北区軍事施設エリアも空爆され、城北地域最大の被害の出た場所なのです。※城北=お城より北側、皇居以北の地域を指す
つまりこの北区滝野川というエリアは終戦期に多くの町並みが破壊されてしまった土地なのです。(ちなみに王子区、滝野川区への空襲はこの4月13日の1度だけではなく、終戦までに計10回以上の爆撃に襲われたそうです。城北地域で最大の被害を受けた例として4月13日の日付を引用しました)

終戦を迎え、ボロボロになってしまった町から復興するため、この時期に北区では爆発的な建築ラッシュが始まりました。いわゆる『戦後のドサクサ』と言われるような時期です。
軍事施設だった場所は一部米軍に接収されていたものもありましたが政府(大蔵省)の管理の下、民間に払い下げられます。戦後の人口増加や疎開者の引き上げ等により居住地不足になっていた折、このような土地の多くは都営住宅や国営企業の宿舎や学校用地などに割り当てられました。また、そういった軍用地に隣接していた一般の土地には我先にと争うように、建築基準法などおかまい無しに一般民家が建てられる事となるのです。
こうして滝野川という地域では昭和20年代に一気に町の作り(景観)が変わってしまうような土地開発が行われました。東京都北区滝野川とはそういった来歴を持っている土地なのです。

このような流れがあり昭和20~30年代に滝野川に多く作られた民家やアパートや都営住宅は皆、同じようなペースで老朽化して行きました。住宅建築ラッシュがあってからおよそ50年が経過した1995年(平成7年)頃からは特にそのような戦後期の建築物は、耐用年数の経過によってどんどん取り壊され、平成の世にマッチするような建築に移り変わっていきました。それまでの平屋建てで内風呂の無い木造建築もどんどん取り壊されました(北区や板橋区で銭湯がどんどん消滅してしまっているのはコレが主だった理由です)。2000年を超えるとその移り変わりはより顕著になって現在に至っているのです。
参考までに北区が発表している滝野川地域の開発プラン案に関するURLを貼っておきます。お時間のある方は是非じっくりとご確認ください。このリンク先の資料からも分かるように北区("東京都"と言い換えてもいいかもしれない)は「滝野川にはまだまだ改新が必要だ」と捉えているようです。

参考:
・北区ホームページ内、北区都市計画マスタープラン(素案) 2010年発表
http://www.city.kita.tokyo.jp/docs/pubcome/441/044135.htm
・同素案内、滝野川地域のまちづくり方針 PDF
http://www.city.kita.tokyo.jp/docs/pubcome/441/atts/044135/attachment/attachment_4.pdf
※特にPDFファイル内のP114以降が今回のエントリーで扱っているエリアに該当します。

また、東京都都市整備局の発表する『地震に関する地域危険度測定調査』を見ても滝野川周辺には『危険度レベル4』が多いことが分かります(危険度は5段階になっており、一番危険なのがレベル5となる)。これはイコール滝野川が「老朽化の進んだ木造建築が密集して残っている地域である事」を表しているとも言えます。
ちなみにこの調査結果によると都内で更に危険度の高いエリアは墨田区墨田周辺(向島を含む)、荒川区町屋周辺、足立区千住周辺になるようです。うは、どこもこのブログで取り上げた地域ばかりだ。

参考:
東京都都市整備局 地震に関する地域危険度測定調査
・解説ページ
http://www.toshiseibi.metro.tokyo.jp/bosai/chousa_6/home.htm
・調査結果画像直リンク
http://www.toshiseibi.metro.tokyo.jp/bosai/chousa_6/kikendo_map.jpg

こういった情報からも分かるように北区滝野川は戦前からあった住宅をどんどん取り壊し、新たな建物(町並み)に作り変えている地域だという事がお分かりいただけるかと思います。
十数年後には消滅してしまうであろう戦後からの風景をできるだけ記録しておこうと自身が思い立った背景にはこのような理由があったのです。


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現代の滝野川について
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ひとくちに『滝野川』と言ってもその面積はかなり広く、番地によっても微妙に特色が異なっています。ここではその差異を簡単に説明します。
北区滝野川はおよそ縦1km、横2kmにまたがっており、1丁目から7丁目まで存在しています。

ごく簡単にではありますが、各町目ごとの特色をまとめましょう。


各地域の特色

・1丁目
都電の『滝野川一丁目』電停があるエリアです。お花見の名所である飛鳥山に最も近く、京浜東北線の王子駅からも歩いて5分程の立地になります。駒込や田端といった荒川区、台東区寄りの文化も併せ持っている地域だと思います。
滝野川1-1-20には昭和からの破風造り建築がしっかり残る東京古銭湯『えびす湯』さんが営業を続けています。(2012年現在)

北区滝野川 えびす湯

北区滝野川 えびす湯



・2丁目
かつての東京第一陸軍造兵廠 滝野川工場だった区画とかぶっているエリアです(軍用地東側にあたる)。そのため学校施設や国営(公営)企業宿舎の見られる場所です。1~7丁目の中で、最も家屋の密集している住宅街を持つ場所の一つだと思います。またここには『滝野川馬場(ばんば)商店街』という見事な昭和テイスト商店街があります。

馬場商店街

滝野川2丁目で昭和35年に開校した北区立滝野川中学校は少子化によって生徒数が減少し、平成21年に閉校となり、滝野川5丁目にあった北区立紅葉中学校(こうようちゅうがっこう)に合併吸収されて滝野川紅葉中学校となりました。なお、平成24年にこの滝野川中学校校舎は新校舎建設のため取り壊されました。
参考URL:北区ホームページ内 滝野川紅葉中学校の改築
http://www.city.kita.tokyo.jp/docs/service/416/041644.htm

在りし日の紅葉中学校

在りし日の紅葉中学校



・3丁目
こちらも東京第一陸軍造兵廠 滝野川工場だった区画とかぶっているエリアです(軍用地西側にあたる)。そのため滝野川2丁目同様に軍用地から転用された土地の多い場所です。現在でも旧郵政省宿舎、国税局宿舎、法務省宿舎、会計検査院宿舎、東京外語大学教員宿舎が存在しています。3丁目で大きな敷地を占めていた東京都立王子工業高等学校は平成20年に廃校になり、平成23年に校舎が取り壊されました。平成24年には同じ土地に新たな校舎が建てられ、現在は東京都立王子総合高等学校として生まれ変わっています。なお、以下は取り壊し寸前、2010年に撮影した在りし日の王子工業です。

王子工業高校

王子工業高校

この3丁目は、抜け出せなくなるような細い路地まで入り込むと戦後の建築がなかなかに残存しているエリアでもあります。いわゆる"散歩スポット"の様なものはありませんが、東京の雑多な居住区域の歩き方に慣れた方(好き者のアナタ)には是非この3丁目の細かな散策をお勧めします。



・4丁目
滝野川地域北端を南北に分断する石神井川の北側に唯一位置しています。東京第一陸軍造兵廠 滝野川工場と東京第一陸軍造兵廠 十条工場にはさまれたエリアで、家屋の密集度は高いです。以前、桐ヶ丘レポートを書く際にこのあたりに住むおじいさん数名に話を聞きましたが、軍の関連施設で働いていた方も多く住んでいるエリアです。戦前からこの地で酒屋を営む『たきわや』さんでもこの地の過去の様子などを伺いました。

滝野川4丁目 たきわや



・5丁目
この地域の鎮守様である『滝野川八幡神社』を有するエリアです。

滝野川八幡神社全景

この拝殿は1922年(大正11年)に再建されたものだそうです。今年で90年物の建築かぁ・・・。空襲に遭わずよくぞ残ってくれました。

滝野川八幡神社

滝野川八幡神社 彫り物

このエリアは全体に坂が多く、散歩をしていると傾斜を含んだ様々な面白い景観に出会える場所でもあります。また、地域に密着した古くからの商店街も残っており、商店街散策も5丁目を歩く際の外せない魅力です。

北区滝野川5丁目のヒトコマ

滝野川散策を初めて行うという方はこの5丁目を散策ルートに組み込んでおくのをお勧めします。



・6丁目
以前のエントリーでも何度か取り上げた6丁目です。この6丁目には街道筋である旧中仙道が通っています(巣鴨地蔵通りはこの旧中仙道にあたります。地蔵通りを北上していくと滝野川6丁目を通過して中仙道板橋宿(仲宿)に至る、という地域です)。そのため注意深く見ていくと街道筋の名残りが感じられる場面を見つけることができます。しかしながら6丁目、7丁目は比較的JR埼京線板橋駅から近いというメリットもあり、急速に開発の進んでいるエリアでもあります。映画『テルマエロマエ』の銭湯ロケで使われた、東京屈指の古銭湯『稲荷湯』もこの6丁目にあります。

滝野川 稲荷湯

以前から何度も発言していますが、このような空襲のあった地域で昭和5年に建てられた建物のまま、現在も営業を継続されているのは奇跡と形容しても大げさではないでしょう。下は6丁目のシビれるくらい素敵なムードを持った細い路地です。

滝野川6丁目の路地



・7丁目
埼京線板橋駅に最も近い(一部は駅に隣接している)エリアだという事もあり、昭和後期から最も開発が盛んなエリア。昭和から残る建築を追いかけた散歩をしたいという視点から捉えると、他エリアよりはやや魅力に薄れるように感じます。なお、東京都と埼玉県を中心に展開しているスーパーマーケット『コモディイイダ』(ライフ、サミット、いなげやといったスーパーマーケットチェーン形態に類似)の本社はここ滝野川7丁目に存在しています。

コモディイイダ 滝野川7丁目

コモディイイダは特に東武東上線沿いでは有名で、2012年7月現在、東京、埼玉、千葉、茨城の1都3県に計74店舗を展開している巨大スーパーチェーンなのです。

さてここで少し脱線してしまいますが、良いお話が聞けたのでちょいとこの地のエピソードをご紹介。
7丁目コモディイイダの横には『ベビーセンター』という個人経営のおもちゃ屋さんがあります。

滝野川7丁目 ベビーセンター

そのベビーセンターの姿をカメラに収めていたところ、お店を営んでいると思しきおばあさんと目が合いました。80代と見受けられるおばあさんはそんな俺の事を見て怪しむわけでも怒るわけでもなく、ニコリと微笑んでくれました。『あ、これは大丈夫なパターンだ』と感じた俺は「こんにちは~、写真を撮らせてもらっています!」と声をかけてみたのです。するとおばあさんはどうぞどうぞと声を返してくれました。それをきっかけにして20分ほどお店の前でお話をさせていただきました。

戦前、おばあさんは静岡県浜松市に住んでいたのだそうです。しかし、静岡県浜松市は終戦を前に大きな空襲に遭ってしまいます。生家を焼き出されてしまったおばあさんは親類をたどって関東にやってきたのだそうです。おばあさんはこの時期が(人生の中で)一番辛い時期だったとおっしゃっていました。
帰宅してから調べてみたところ、静岡県浜松市には航空機関係の軍施設や工場が多く存在しており、何十回も空襲を受けた地域だったようです。資料を見たところ終戦時には市街地の92%が被害に遭ってしまったというのですから正に"壊滅的"な状態だったのです。(※下リンク先資料によると空襲の回数は計27回に及び、その被害は全壊・全焼・その他を合わせ3万1,000有余戸と記載されています)

参考:総務省 国内各都市の空襲と戦災の状況 浜松市
http://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/tokai_03.html

※おばあさんの「浜松出身である」という言葉から浜松市の事を少し調べたのだが、戦後の壊滅的な状況から復興していく際に『本田技研』『YAMAHA』『河合楽器』などの技術屋メーカーが発展していった土地であると分かりました。なお、楽器産業でいうと、現在はローランドの本社も浜松市にあり、静岡県浜松市は日本一の楽器産業地域なのだそうです。浜松市民の皆さん、知らなくてごめんなさい。改めて浜松市をリスペクトだわ。


おばあさんは終戦の後、数年してから東京都江東区の亀戸(かめいど)に移住し、そこで旦那さんと一緒に喫茶店業を営んだそうです。この時代の喫茶店という業種には大変多くの人が集まり活気があったとおっしゃっていました。何も躊躇する事無く足を運べる飲食チェーン店やコンビニも無い時代ですので現代の我々が想像する以上に喫茶店には人々が集っていたのではないかと思います。

その後昭和30年代に入り、亀戸を後にしてこの北区滝野川という地にやってきたのだそうです。
滝野川で開業した当時の『ベビーセンター』には大変多くの子供達が集まってくれたと、おばあさんは嬉しそうに語ってくれました。昭和40年代からはベビーブーム期に入り、その賑わいはピークになったそうです。「一番忙しかった頃には店員を3人も雇っていたのよ」と教えてくれました。

ベビーセンター店頭

どんな因果か空襲によって大きな被害を受けた浜松市から、同じく被害を受けたこの滝野川にやってきてお店を開かれたわけです。ご自身のそういった経緯からも、おもちゃもろくに買ってもらえないような辛い状況にあった子供達の気持ちを親身に察せられたのでしょう。そうしてこの地域の子供達と接してこられ、夢を与え続けること50年以上。現在もコモディイイダの横にベビーセンターは在るのです。

この地域密着のおもちゃ屋さんの店頭には楽しそうに集う子供達の記念写真が貼られています。お話を聞くと、これは遊戯王カードが発売された後にカードバトル(デュエル)の場として店先の軒下を開放されていた頃の画像なのだそうです。(遊戯王カードの販売開始は1999年の事)

ベビーセンター店頭

「この画像に写っている一番大きな(年長の)子は30歳近くになった今でも、たまに顔を出してくれるのよ。でもこの1年位はきてないわねぇ。」
おばあさんはこの色褪せた画像を見て、なつかしそうにそう語っていました。
悲しさ、嬉しさ、懐かしさ、暖かさ・・・・そういったものが交じり合うなんとも言えない感情に胸が締め付けられましたよ。伝聞ではなく、ご自身が体験してきた事を直に伺えてとても有意義な時間を過ごせました。
ありがとうございましたと頭を下げ握手を求めると、おばあさんは「あなたもこれからまだいろいろあるでしょうけど大丈夫よ。」と笑顔で俺に言葉をかけてくれました。なんだか全てを見透かされているようです。深い。意味深過ぎるよ。更に胸が締め付けられる思いでした。
北区滝野川、そんな土地です。

今回、滝野川画像を撮りためるために散策していて偶然こういった『この地の歴史』が分かるようなお話が聞けましたが、滝野川にある多くの個人商店は多かれ少なかれ皆様々なオリジナルのストーリーを持っていらっしゃることでしょう。
何十年も続く定食屋さんや中華屋さん、喫茶店なんかの話も伺ってみたいと考えさせられました。


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次回以降のエントリーについて
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以上が大まかな北区滝野川の成り立ちと現状のまとめとなります。
こういった背景を持つ土地に2012年現在残された昭和の風景とはどのようなものなのか・・・・
その辺りについては次回エントリーより、実際に撮ってきた画像を中心にしてデータ化していこうと思います。
※なかなか素早くはまとめられないと思いますのでゆったりと流れを追っていただけますと幸いです。

2012年 滝野川に残る木造家屋
現在も滝野川に残る木造建築家屋(2012年撮影)

では今回はこれにて。



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※1 下瀬(しもせ)火薬製造所
旧海軍の技師であった下瀬雅允(しもせ まさちか)が実用化に成功した火薬(下瀬火薬)を製造するために設けられた海軍施設。この下瀬火薬は明治26年に開発に成功し、明治37年から始まった日露戦争に於いて戦勝に大きく貢献したとされている。現在の北区西ヶ原にはこの下瀬雅允の名を取った『下瀬坂』という坂道(当時の下瀬火薬製造所に隣接する)が現在も残る。なお、この下瀬坂から徒歩2分程の位置にある染井霊園(豊島区巣鴨、駒込にまたがる)には下瀬雅允が葬られ、墓標が立てられている。

参考URL:Wiki 下瀬火薬
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E7%80%AC%E7%81%AB%E8%96%AC



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