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4月第2週末。

桜好きな俺のこのシーズンの散歩はやはり桜を追うものとなった。

今年、2011シーズンは特にゆっくり静かに桜を眺めたいという思いが強かった。そこで北区の中でもそれほど人の多く集わない桜スポットを中心にいくつかの場所を巡ってきた。桜並木として区内では有名な通りや桜の植えられた公園など、複数の場所の桜を見てきたのだがやはり桜を用いて区の活性化を図ろうとしている北区だけあって、ゆっくりと眺めるのに適した桜スポットがいくつも存在した。

そんな中でも足を運んでみてやはり「良い」と思わされた桜があった。これまでにこのブログでも取り上げた事のある都営桐ヶ丘団地で見られた桜風景である。
これまで当ブログでは桐ヶ丘レポートとして都営桐ヶ丘団地のことを扱った事があるが、この都営桐ヶ丘団地にも桜が多い。昭和20~30年代に造成された団地空間には多くの桜が植えられ、ものによっては40~50年の時を経て見事に成長しているというワケだ。

今回のエントリーでは2011年シーズンに見ることのできた都営桐ヶ丘団地の春の風景をまとめ、これまでの桐ヶ丘レポートの補足データにしようと考えた。
それらを『桐ヶ丘レポート【補】 キリガオカノハル』と題して春の訪れを感じられる都営桐ヶ丘団地の風景を残したいと思う。




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■桐ヶ丘レポート【補】 キリガオカノハル


以前の桐ヶ丘レポートにも書いたが、桐ヶ丘団地には多くの桜があり桐ヶ丘だけの春の情景が感じられる場所となっている。(桐ヶ丘レポート【3】 都営桐ヶ丘団地魅力考・魅力4 多様な自然の存在を参照のこと)

以下は全て2011年シーズンに訪れた桐ヶ丘団地で見ることのできた春の風景となる。



キリガオカノハル01


今回はN地区を中心に散策。W地区、E地区には桜はほとんど無い。N地区造成の際に桜を植えて欲しいという要望があったのだろうか。


キリガオカノハル02


N38号館前。多分これはベストな時期である。ベターではない。


キリガオカノハル03


奥に見えてくるN37号館にも桜のアクセント。満開だ。


キリガオカノハル04


団地住棟のペイントと桜の薄紅色のコントラストもなかなかのものじゃありませんか?

住棟番号表示と桜という組み合わせをぼーっとしばしの間楽しむ。


キリガオカノハル05


都営桐ヶ丘団地の住棟番号表示は頭文字のアルファベットが小文字だったり大文字だったり、フォントに統一性が無かったり、マテリアルが異なっていたり(タイル埋め込みやペンキペイントなどもある)という面白さもあるのだがそれはまた別の楽しみ方。


キリガオカノハル06


ピンクに染まったN39号館とN41号館の間を抜けていく。


N39号館とN41号館


団地内掲示板にはこんなメッセージが。残念だ。


キリガオカノハル07


途中、団地内の小さな公園の前を横切る。小学校低学年くらいの子供達がニンテンドーDSで遊んでいた。ここにも桜があったなんて、以前夏に来た時には気がつかなかった。


キリガオカノハル08


参考までに、下は夏シーズンの同じ公園となる。


桐ヶ丘の公園_N50号館西側公園03


この日は明らかに暖かな南からの風が吹いており、とても散歩に適した陽気。暖かな風が吹く中とある桜のある場所を目指す。


キリガオカノハルN51横


N51号館の横を抜け・・・・・


キリガオカノハルN52横


N52号館の横を抜け・・・・・


キリガオカノハルN49北通路


N49号館の北側通路を抜け・・・・・

やってきたのはN33号館横。ここには都営桐ヶ丘団地内最大の桜があるのだ。


以前のレポート中でも触れたこの個体だ。(7月撮影) ↓


桐ヶ丘団地の緑_立派なソメイヨシノ


そして下が桜の咲いた図。これが桐ヶ丘一のソメイヨシノである。


キリガオソメイ


あれ、こうして並べてみて初めて分かりましたが1本大きな枝(というか幹でしょうか)が無くなっていますね。意図的なのか、何か理由があったのか・・・?
少々残念ですがキリガオカソメイを堪能。


キリガオカソメイ


やはり素晴らしい。この個体の一番イキのいい時期を見られた事を喜ぶ。

そしてひとつ、現地で気付いた事。


キリガオカソメイの幹


今年ここに来て始めて気付く事ができたのだが実はこの個体は一本ではなく、2本の個体が繋がって1本になっているものだということが分かった。(このように2本がくっついて1本のようになっているソメイヨシノは結構存在します。)

と、そんなワケでこのソメイヨシノの程近くにある『なかよし公園』にて30分ほど2011キリガオカ桜チル。


キリガオカノハル10


桐ヶ丘の桜を楽しむ際にやはり特筆すべきなのは『自分の世界に入り込みやすい』という事だ。言い換えると『周りに人がいない』とも言える。

桜の幹はやや細身で枝ぶりもやや寂しめではある。ただ、桐ヶ丘での桜の楽しみ方はそういうものではない。空間と、捻じ曲がったような時間の流れを一緒に楽しんでこそのキリガオカザクラだと思うのだ。

なかよし公園での30分間、桜が満開のこの公園を俺が一人で独占。なんという贅沢。


キリガオカノハル12


公園がどのくらいの広さなのかを記録するため動画にも収めておいた。音を含めて感じて欲しい。





一人きりのなかよし公園を堪能し、また桐ヶ丘の春を探しに歩みを進める。


そして見えてくる桜と貯水棟。


この組み合わせでぐっときてしまうのは何故なのだろう。


キリガオカノハル13


えんばん公園もこの通り。なんとまあ昭和40'sだこと。


キリガオカノハル14


風景をカメラに収めているとネコが寄ってきた。


キリガオカノハル15


どうやらナワバリを荒らしてしまったようである。すまんすまん。


キリガオカノハル16


そのまま今度は桐ヶ丘中央公園に移動する。ここにもソメイヨシノが植えられている。


桐ヶ丘中央公園の桜


桐ヶ丘中央公園の春


キチが丘中央公園ベンチ越しの桜


数人の少年にコーチが野球の指導をしていた。


桐ヶ丘中央公園の風景1


桐ヶ丘中央公園の風景2


そのまま公園内を通り抜け、E、W区域のある南側に足を向ける。


桐ヶ丘団地給水塔


いつものように給水塔に挨拶しながら桐ヶ丘中央公園方向へ。


桐ヶ丘中央商店街2


ここにも春の雰囲気があふれていた。


桐ヶ丘中央商店街1


桐ヶ丘中央商店街3


桐ヶ丘中央商店街4


桐ヶ丘中央商店街5


これが桐ヶ丘の春である。


キリガオカノハル18


桐ヶ丘団地の1Fに設けられた商店街に何故こういうものが売られているかという事をきちんと考えると現代桐ヶ丘の象徴のような気がしてならない。こういうニッチもあるのだ。


キリガオカノハル17


この洗剤の分量の感覚が分かるのは何歳位までの方なのでしょうか。


帰り際の桐ヶ丘の植木鉢では下のような風景も。


キリガオカノハル19


以上が2011年に桐ヶ丘で楽しんだ春である。

夏の緑あふれる桐ヶ丘はもちろん美しいが、桜はこの1週間だけなのでもっと特別な雰囲気があるのだ。こういった特別な情景は非常に魅力的だと思うのだが、実際に都営桐ヶ丘団地内の公園にほとんど人がいないのが現状なのだ。



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最後におまけ。

コチラは桐ヶ丘団地に隣接する赤羽台団地にあるスターハウス棟と桜の風景。


akabanedai_sakura



スターハウスってなぁに?というあなたにはこのURLをプレゼンツ。 ↓

■wiki スターハウス説明
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%8F%E3%82%A6%E3%82%B9



はい、満喫しました。







なお、もっと深く都営桐ヶ丘団地について知りたい方は以前の桐ヶ丘レポートエントリーをご覧ください。



※このように素晴らしい桜風景のある桐ヶ丘団地エリアですが、当然この場所は団地に住む方の生活圏です。いわゆる一般的なお花見スポットではありません。騒いだり、激しく飲酒したり、ゴミを放置するなどは言語道断です。もし桐ヶ丘の見事な桜を楽しみに行く場合にはくれぐれも他人に迷惑のかからないように気をつけたいところです。



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※当エントリーは東京都北区にある都営桐ヶ丘団地についてレポートしているエントリーの第5回目となります。
このエントリーの前に
桐ヶ丘レポート【1】 序 都営桐ヶ丘団地の成り立ちとその歴史背景
桐ヶ丘レポート【2】 都営桐ヶ丘団地魅力考・魅力1~3
桐ヶ丘レポート【3】 都営桐ヶ丘団地魅力考・魅力4~6
桐ヶ丘レポート【4】 都営桐ヶ丘団地魅力考・魅力7~9
があります。





2010年7月23日。
都営桐ヶ丘団地に対する自身の想いをどうにか形に残そうと桐ヶ丘レポートの制作を思い立ち、2010年3月から続けていた資料集めやフィールドワーク、また実際に桐ヶ丘団地を探訪しての画像撮りなど、これら一連の行動に終止符を打つ行為としてこの日は桐ヶ丘団地を訪ねようとかねてから決めていた。
都営桐ヶ丘団地と密接に過ごした4ヶ月間の閉めとして、どうしてもこの日に桐ヶ丘を訪れたい理由があったのだ。

その理由とはこれである。


桐ヶ丘の夏イベント


桐ヶ丘団地で開催される2010年の盆踊り大会の現場の空気にじかに触れ、このレポートの最後のまとめにしようと考えたのだ。子供の少なくなってしまった桐ヶ丘団地の盆踊り大会とは如何様なものなのか、実際にその場の体験を以ってレポートを終了させようとと狙ったわけだ。
幸い時間が作れ、このようなかねてからの目論見通り桐ヶ丘団地に足を向けることができた。


夕日に団地シルエットが映える


日も暮れかかり、辺りの暗さが増してきたころ桐ヶ丘に到着。
まずは挨拶を交わすように夕日のオレンジに浮かぶ給水塔を確認したのち、盆踊り会場となっている桐ヶ丘中央公園内のスポーツグラウンドに近づいていく。


オレンジに染まる給水塔


グラウンドに近づくにつれ、徐々にお囃子が聞こえてくる。
桐ヶ丘中央公園内には確かにいつもより多くの人がいたが、それでも人影はまばらであった。
「祭りによって盛り上がる桐ヶ丘」という想像と「祭りを持ってしても人が集まらない桐ヶ丘」という両極端な2つの想像が入り混じったままグラウンドの前までやってきた。


桐ヶ丘盆踊り


グラウンドの中心にはやぐらがあり、おそろいの衣装に身をまとった踊り手たちが東京音頭に合わせてやぐらの回りで踊っていた。盛り上がり具合はどの程度のものだろうと、グラウンドの奥に顔を向けた瞬間、私の目に下のような光景が飛び込んできた。


人であふれる桐ヶ丘盆踊り_01


おお!?なんだなんだなんだ?


人であふれる桐ヶ丘盆踊り_02


すごい、すごいぞ。こんなにたくさんの人が集まっているではないか!
夏休みに入ったばかりの子供たちはわたあめを抱え、かき氷で舌を真っ青にし、スーパーボールすくいに大興奮してギャーギャーはしゃぎ回っている。団地居住者と思しき盆踊り大会開催役員も子供たちにジュースを配ったり、ご近所さん同士で世間話に花を咲かせたりしている。なんだ、すごいエネルギーじゃないか!絶対数は少なくなったとはいえ、桐ヶ丘に子供が全く居なくなってしまったわけではないのだ。桐ヶ丘居住の3世代目となるのか、はたまた新たに入居してきた家族なのかは定かではないが、このエネルギーに触れているとこれまでとは違った都営桐ヶ丘団地の未来像が想像できた。


盆踊り会場は多くの人で賑わう


とっぷりと日が暮れたころにはもっと人が集まってきて、盆踊り会場は更に多くの人でにぎわい始めた。楽しそうな顔で屋台に並ぶ子供たちの姿や、やぐらの回りで踊りを披露する盆踊り会の皆さんの衣装姿を見ているとここ数ヶ月の間、桐ヶ丘団地と接してきた日々が自然と思い出された。


屋台に並ぶこどもたち


桐ヶ丘盆踊り


昭和30年代から桐ヶ丘を支えてくれた居住棟解体の悲しさ、桐ヶ丘中央商店街に漂う高度経済成長期そのままの空気感、手入れされることなく群生する多様な植物、悲しげな波動を強く発している公園の遊具たち、人気(ひとけ)のない集会所・・・・。
走り回る子供たちを見ながらそういった記憶を回想していると、それまで流れていたドラえもん音頭が終わり、私の耳に聴き慣れない音頭のメロディーが飛び込んできた。この音頭はなんだろうと、集中して歌詞を聴いていたところ、その内容からこれが桐ヶ丘団地オリジナルの音頭だということが分かった。(正式名称は不明だが、本レポートではこれを「桐ヶ丘音頭」と呼ぶ)

上に書いたような記憶の回想をしている最中でもあり、あまりにも過剰に桐ヶ丘団地への思い入れが強くなっていた私はこの音頭を聴き進むうち、1番の終わり辺りで涙があふれ始め、2番の途中ではもうポロポロと涙を流してしまっていた。桐ヶ丘音頭の流れる中、元気に走り回る子供たちの姿が更に涙に拍車をかけた。

幸運だったのはこのとき、偶然にもドラえもん音頭が終わったタイミングでデジカメをムービーモードに切り替えて録画をしていたことだ。おかげでとても素晴らしいものをデータ化することができた。ただ、そのムービーに己のすすり泣く声が入らぬよう声を殺すのが非常に大変であった。(幸いすすり泣く声はムービーには入らずに済んだ)理由を知らない他人様がこの時の私の様を見たらさぞ不可解で近づきがたい光景だったのではないかと思う。こらえよう、こらえようと自分に言い聞かせたのだが、その歌詞におもいきり心を揺さぶられてしまい、衝動を抑えることができなかったのだ。

この桐ヶ丘レポートの最後を飾るに相応しいものである。以下に動画をアップするので桐ヶ丘音頭を堪能していただけると幸いだ。きっと都営桐ヶ丘団地に何の思い入れも無い方が見た場合には「なんでこんなので泣いてんの?」という感想しか出てこないようなムービーだ。なにかしら桐ヶ丘団地に対しての思いを持つ方が見ると印象が変わってくるのではないかと思う。
(可能ならばフルスクリーン再生のうえ、部屋を暗くする、ヘッドホンで音声を聞くなど、実際に自分もその場にいるようなスタンスでムービーに入り込んで集中して見ていただくのが最もこの感動が共感していただけるのではないかと考える。)

ムービーの下には聞き起こしした桐ヶ丘音頭の歌詞も記載しておくが、正式な歌詞カードなどがあるわけではないので間違っている点も何ヶ所かあるのではないかと思う。記載した歌詞の間違いに気付かれた方はコメント欄などでご指摘いただけると幸いだ。

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桐ヶ丘音頭

1、
富士と浮間を仲間に入れて
今宵一夜は花の宴
ここはよい町 住みよい団地
あなたと私の桐ヶ丘
交わす笑顔の交わす笑顔の
サァサ 花が咲く

2、
桐の林に桜の並木
肩を寄せ合うむつまじさ
ここはよい町 住みよい団地
あなたと私の桐ヶ丘
やぐら囲んでやぐら囲んで
サァサ 一踊り

3、
すみれたんぽぽ花香は続き
春が来たよと呼んでいる
ここはよい町 住みよい団地
あなたと私の桐ヶ丘
いつも一緒にいつも一緒に
サァサ 夜明けまで


【所感・留意点など】
・歌詞全体を通して花や木などの植物を歌詞に盛り込んでおり、自然と人々の暮らしが密接であることを表現したい狙いがあるようです。
・「サァサ」という掛け声の後に来る歌詞に注目すると「花が咲く」→「一踊り」→「夜明けまで」となっており、どんどん大きくなる楽しさ嬉しさをいつまでも続けていこうというストーリー展開が見られます。
・歌詞はムービーから直接聞き起こした物のため間違っている可能性が大いにあります。
・1番の出だし部分「♪富士と浮間を・・・」の部分は北区にある地名の富士(十条)と浮間(浮間舟渡)の人々もよりそってという意味だととらえましたが、「富士と浮間」が合っているかどうか自信がありません。「♪月と隙間を・・・」とも聞こえるかもしれません。
・3番の最初のセンテンス「♪すみれたんぽぽ花香は続き」の部分も間違っている可能性が高いです。私の耳には「はなだはつづみ」や「はながわつづき」とも聴こえたため、無理やり「花香は続き」と文字をあてました。
・この音頭のタイトルを「桐ヶ丘音頭」としていますが、正式な名称は不明のままです。なお、北区中央図書館で借りた桐ヶ丘35年史の中に「桐ヶ丘音頭」という音頭の歌詞が載っていますが、今回ムービーに収めた音頭とは歌詞が全く違っているものでした。桐ヶ丘音頭にはいくつかのバージョンが存在するのかもしれません。

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赤羽郷という苦しい居住環境を乗り越えてきた方々が、繁栄する桐ヶ丘団地を想像してこの歌詞を考えたかと思うと、音頭に託したそのメッセージが心に突き刺さり抗うことができなかった。そのまま30分ほどその場の様子を目に焼きつけ、アラレちゃん音頭の流れる中盆踊り会場を後にした。


年に1度しか見られない桐ヶ丘の風景





今回、「思い付き」というきっかけから都営桐ヶ丘団地についてレポートにまとめてきたが、その過程でこれまでに自分が知らなかった多くのことを学ばせてもらった。
戦前北区にこれほどまでに軍事施設が多かったこと、北区で製紙産業が発達した理由、赤羽郷の歴史、進駐軍駐留時代のキャンプ王子、都営住宅の規格、北区の異常な高齢化問題などだ。またこういった知識を得たことで街を歩く際の道の捕らえ方が大きく変わった。これまでには全く気にせず通過していた道にも多くの歴史があるということも実感として認識できた。(こういった新たな視点からの歴史散策レポは今後別エントリーでまとめていく。本エントリーは桐ヶ丘レポートであるため割愛しているのだが、桐ヶ丘散策をきっかけに私の散歩は予想外の展開を見せている。現在進行形だ。)この2010年7月の出来事はこの先、私の記憶の中に残り続ける。

都営桐ヶ丘団地に対しての感謝を直接表すような行動はできないが、当レポートが都営桐ヶ丘団地の2010年に置かれている状況を知る際のいちデータとなれば本当に幸いである。



月夜の桐ヶ丘



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最後に、今回都営桐ヶ丘団地で撮りためた画像で公開していないもののうち、多くの方に見ていただきたいものをアップして本レポートを閉める。
これまでのレポート内でも書いたことだが、都営桐ヶ丘団地は季節や時間帯、またタイミングによってさまざまな顔を見せてくれる。以下に列挙する画像の中にあなたの心に何かを訴えかけるものがあるかもしれない。


N40号棟とN47号棟の間の団地への進入路 桐ヶ丘住所盤 桐ヶ丘の日常

手前N38号棟奥N37号棟 2001年まで北区には雪印の工場があった スノーブランド

昭和38年(1963)完成のN32号棟 やはり緑が多い桐ヶ丘 給水塔のある方位を考えながら歩くと団地内でも迷子になりにくい。まさにランドマーク。

N区域給水塔の1F部施設 街区板や団地内地図でルートを決める 給水塔シルエット

N区域給水塔細部 N区域給水塔 E32号棟裏

年期が感じられるダストシュート 現在位置再確認 北桐ヶ丘郵便局

桐ヶ丘アパート唯一の高層棟E47号棟1F部分 E47号棟1F部の壁 住人は屋上に行けるのだろうか?

既に解体の決まったE4号館に付けられた消火器 E4号棟は既に解体待ち 設置は2009年8月のようだ

桐ヶ丘中央商店街のプレイマシン 桐ヶ丘中央商店街のプレイマシン 桐ヶ丘中央商店街のプレイマシン

桐ヶ丘中央商店街のプレイマシン 桐ヶ丘中央商店街のプレイマシン 遊具側ではなく、料金タイマーの製造先

桐ヶ丘中央商店街の街灯は都営住宅のものとは異なるのだろうか 桐ヶ丘中央商店街の街灯は都営住宅のものとは異なるのだろうか 桐ヶ丘の日常_43

桐ヶ丘の日常_35 桐ヶ丘の日常_36 桐ヶ丘の日常_37

桐ヶ丘の日常_38 桐ヶ丘の日常_39 桐ヶ丘の日常_44

桐ヶ丘の日常_40 桐ヶ丘の日常_41 桐ヶ丘の日常_42

桐ヶ丘の日常_05 桐ヶ丘の日常_53 桐ヶ丘の日常_61

 桐ヶ丘の日常_23 桐ヶ丘の日常_45 桐ヶ丘の日常_46

桐ヶ丘の日常_47 桐ヶ丘の日常_48 桐ヶ丘の日常_49

桐ヶ丘の日常_50 桐ヶ丘の日常_51 桐ヶ丘の日常_52

桐ヶ丘の日常_54 桐ヶ丘の日常_55 桐ヶ丘の日常_56

桐ヶ丘の日常_57 桐ヶ丘の日常_58 桐ヶ丘の日常_59

桐ヶ丘の日常_60 桐ヶ丘の日常_62 桐ヶ丘の日常_63




以上を以ち桐ヶ丘レポートを終了とする。
桐ヶ丘レポートのエントリーすべてが都営桐ヶ丘団地に対する私なりの感謝である。



2010年8月22日 Sun.  闊歩マン





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※当エントリーは東京都北区にある都営桐ヶ丘団地についてレポートしているエントリーの第4回目となります。
このエントリーの前に
桐ヶ丘レポート【1】 序 都営桐ヶ丘団地の成り立ちとその歴史背景
桐ヶ丘レポート【2】 都営桐ヶ丘団地魅力考・魅力1~3
桐ヶ丘レポート【3】 都営桐ヶ丘団地魅力考・魅力4~6
があります。





さて、これまで桐ヶ丘団地の魅力について魅力1~6に分けて記録してきたが、本エントリーでは魅力7~9までをまとめ、都営桐ヶ丘団地魅力考のシメとする。
魅力7では桐ヶ丘アパートの歳月の経過が感じられるようなポイントを、
魅力8では昭和の名残りが感じられる水道局などのプレートを、
魅力9ではこれまでのカテゴリには当てはまらなかったが記録に残しておきたい魅力をまとめる。



● 魅力7 歳月の経過が感じられるポイント

これまでのエントリーで述べてきたように桐ヶ丘アパートの建築は昭和30年頃から行われており、古いものだと半世紀近くも歳月を重ねた建物や設備を見ることができる。長い時間を経たそれら建造物を見て過去のことを想像できる方にとっても桐ヶ丘団地は魅力あふれる場所に写る事だろう。
魅力7ではそのように「歳月の経過が感じられるもの」をピックアップしていこう。まずは主に「サビ」によって経年が感じられる画像からだ。


年月の経過を感じさせる設備01


年月の経過を感じさせる設備04


素材が鉄の場合、やはりサビによって見た目や形状が大きく変化してしまっているものが多い。
下の画像はN49号館の北にある鉄柵だが、ペイントが剥げてサビてしまっている。


年月の経過を感じさせる設備05


個人的には動物園のケージを彷彿させる良い味を持った鉄柵だと感じている。


年月の経過を感じさせる設備06


下はN53号館前のシュロの木。ただ着目点はそちらではなくシュロの背後にある鉄扉なのだが・・・・


アートな鉄扉01


アートな鉄扉02


もうここのサビなどに至っては・・・・・


アートな鉄扉03


「ゴッホかよ!」と思わずツッコミを入れてしまったほどアートしている。


ゴッホの作品では最も好きな「星月夜」


このような鉄柵や鉄扉は団地内にいくつもあるがみな上の画像のようにサビてしまっており、そういった部分からも建設からだいぶ年月が経っている団地だということがことが感じられるのだ。
世の中には「サビマニア」とカテゴライズされる嗜好を持つ方もたくさんいるが、サビによって変化した素材を魅力的だと感じる方はなかなかに多い。桐ヶ丘団地はそんな方にも魅力ある空間に映ることだろう。


年月の経過を感じさせる設備09


年月の経過はサビだけでなく、石材やコンクリート、モルタルなどからも感じることができる。


年月の経過を感じさせる設備08


年月の経過を感じさせる設備02


崩れてしまっている石塀


やはりこういった部分に注目してしまうと新棟建設は必要なのかと思ってしまう。

またこのような素材の変化からではなく、設備や物品そのものから時代を感じられる場合もある。例えば下の画像だ。


年月の経過を感じさせる設備03


これはE地区第一集会所の壁にあった電話線のコネクタだが、そのロゴは電電公社時代のものである。電電公社が民営化されNTTになったのは1985年。つまりこの設備は設置から少なくとも25年以上経過している事になる。
私の場合、これを見た瞬間に25年前の電電公社のテレビCMが一瞬にしてはっきりとよみがえった。当時電電公社ではお客様窓口サービスとしてオレンジラインというサービスを展開していたのだが、そのオレンジラインサービスでは「テレ太くん」というキャラクターを使用していた。このコネクタを見て、テレ太くんのデザインやテレ太くんが歌っていたCMソングがフラッシュバックしたのだ。25年前の出来事でも、きっかけ(スイッチ)があれば鮮明に記憶が蘇るのである。人間は過去のことを「忘れてしまう」のではなく「思い出せない」ことが多いということだろう。こうやって過去の記憶を呼び覚ます行為は桐ヶ丘団地を巡る際の楽しさの一つであると思う。


テレ太くん
参考資料:オレンジラインの「テレ太くん」




また、たとえばこんなものからも過去に引っ張られたりする。
下の画像は酒屋さんの横に積んであったHi-C(ハイシー)のビンである。


年月の経過を感じさせる設備10


年月の経過を感じさせる設備11


このロゴを見た瞬間に過去に記憶が引き戻されるような感覚を覚えたので気になって画像に残しておいたのだが、帰宅してから調べてみるとやはりこのHi-Cロゴは古いものであった。
赤いリボンシトロンの箱に入ったほうのビンのロゴは1990年~1996年頃まで市場に流通していたもので、もう一方の斜体のロゴはそれ以降現在まで継続使用されているタイプなのだそうだ。この古いロゴタイプのビンが仮に1996年にこの桐ヶ丘団地に納品されたと仮定すれば、このビンは14年間この地に存在し続けていることになる。14年前小学校1年生のときにこのHi-Cを飲んだ子も今は立派に成人しているはずだ。


これらのように団地居住棟だけでなく、団地内にある様々な施設や設備からもたくさんの情報が発せられている。そこに気がつけるかどうかで桐ヶ丘散策の楽しさは大きく変わってくる。私も見逃してしまっている事や気づけていない事などまだまだたくさんの情報が存在しているはずだ。




● 魅力8 水道局などのプレート


≪東京都水道局プレート≫

下の画像のように桐ヶ丘アパートには1階部分に共用の水道(流し)が作りつけてある居住棟もある。


桐ヶ丘東京都水道局プレート00


今回、桐ヶ丘団地の様々な画像を取り残している際にその流し部分にこのようなプレートがあるのを発見した。


桐ヶ丘東京都水道局プレート01


このプレートをぱっと見た瞬間、上部にある地図記号の「工場」地図記号「工場」のようなマークを見て、この辺りには以前工業(軍事)施設もあった場所なので、もともとはそういう施設に水道の使用を許可したことを表すプレートなのかと思ったのだが、どうもそうではないようだ。

調べてみるとこのマーク これは東京都紋章だった東京都の紋章で明治22年(1889年)12月から使用されているものだそうだ。自分が東京に暮らすようになったのは1991年からであり、その頃には既に東京都は新しいシンボルマークの使用を推し進めていたためあまり馴染みがなかったのだ。これまでにも水道管のマンホールの蓋などでこの東京都紋章を目にはしていたが、ずっと地図記号の工場と関係しているマークだとばかり思い込んでいた。

なお、私の頭の中にある東京都のマークはこっちだ。→ 東京都シンボルマーク


■現在の東京都紋章の説明など確認したい方は下記URLをどうぞ
 東京都公式サイト内 都の紋章・花・木・鳥
http://www.metro.tokyo.jp/PROFILE/mon.htm

ただし、結局このプレートが意味するところや書かれた数字の意味については何も分かっていない。
桐ヶ丘アパートには同様のプレートがいくつか残っている。参考までにそれらの画像もアップしておく。


桐ヶ丘東京都水道局プレート06


桐ヶ丘東京都水道局プレート07


見つけた当初はプレートの数字を見て上2桁が年代を表して、残りが個別番号なのかとも考えたがプレートによって桁数も違っており、そこから法則性を見いだすことはできなかった。


桐ヶ丘東京都水道局プレート10


桐ヶ丘東京都水道局プレート11


また、それぞれのプレートをよく見るとプレスの型が微妙に異なっている。(例えば「専用」の専の文字のヽ部分や東京都紋章の外輪と内輪の隙間のミゾの幅などに差異が見られる)ここからこのプレートが設置されたタイミングは1回だけではなく、異なる時期に複数回に渡って設置されたのではないかと思われる。


桐ヶ丘東京都水道局プレート08


中には1つの水道に2つのプレートが付けられているものもあった。


桐ヶ丘東京都水道局プレート09


また流しの壁面ではなく、水道管の方にプレートが付けられている箇所もあった。


桐ヶ丘東京都水道局プレート04


桐ヶ丘東京都水道局プレート05


他にも破損してしまったプレートや、


桐ヶ丘東京都水道局プレート03


「ここには過去にプレートがあったのだろうな」と思われる接着痕も存在した。


桐ヶ丘東京都水道局プレート12


以上のような水道プレート(便宜上こう呼んでいるが正式名称は不明)は桐ヶ丘団地内だけでなく、東京都内の古い木造家屋などでは玄関に貼り付けられているものをたまに目にすることがあるが、都営桐ヶ丘団地のように1つのエリアに複数のプレートが残存するエリアは他にもあるのだろうか。





≪街灯プレート≫

桐ヶ丘団地内には下のような街灯が何本も設置されている。
※これは正しくは「桐ヶ丘団地内には」ではなく、「都営団地には」なのかもしれない。同タイプの街灯を他の都営団地でも見たことがあるからだ。もう少し都営団地めぐりをしたら答えが出るのかもしれない(笑)


桐ヶ丘団地の街灯01


この街灯の柱部分には東京都のプレートが取り付けられており、そこにはプレート設置年と桐ヶ丘団地内での通しナンバーが入れられている。


桐ヶ丘団地の街灯02


昭和30年代の桐ヶ丘アパートの写真資料を見るとその当時には既に同じタイプの街灯が設置されているのが確認できるため、街灯の管理か何かでプレートのみを後付けしたのだろう。桐ヶ丘を巡っていてこの街灯のナンバリングプレートで一番若い数字はどこにあるのだろうと確認しながら画像に収めていたときに下のようなものを発見した。


東京電力プレート01


東京都のナンバリングプレートの下になにやらもうひとつプレートがあるのが目に止まった。何だろうとよく見てみると、


東京電力プレート02


「街」「大塚支社」の文字に「稲妻の入ったマーク」「30028」という数字の入ったプレートが確認できた。
これに関しては大塚支社と稲妻マークから「東京電力」のプレートであるとすぐに判断できた。(私のライフラインである都電を利用して大塚駅前電停を目指すと、途中に東京電力の大塚支社がありよく目にしているため大塚支社の文字を見た瞬間に東京電力と繋がった。)もう少し詳細が知りたいと思い、帰宅してから調べてみた。

昭和初期、赤羽郷地区を含む当時の東京府東京市王子区、滝野川区エリアの電力供給は関東配電によって行われていたがその組織は昭和26年(1951年)に東京電力に引き継がれている。ちなみに北区滝野川には現在も関東配電時代のプレートが残存している。


北区滝野川に残る関東配電のプレート
北区滝野川に残る関東配電プレート。「関配」の文字が見える。

桐ヶ丘アパートのこのプレートには東京電力のロゴが入っているため昭和26年以降に東京電力がこの地域に配電するようになってからのものだと分かる。また、稲妻の東京電力ロゴマークであるが、こちらは昭和62年(1987年)に現在のTEPCOマークに変更されている。ここからこのプレートは1951年から1987年までの間に設置されたのは確実だ。
桐ヶ丘アパートの住棟ができたばかりの頃の資料写真を見ると、既にその段階で同じ形状の街灯が設置されているのが確認できる。ということは、この街灯は住棟の完成に合わせて設置されていったと言う仮定が成り立つ。ではこの東京電力プレートが付けられた街灯に一番近い居住棟はどこかと言えばそれはN20号館である。このような考えからN20号館の完成年を確認したところそれは昭和34年(1959年)であった。もし仮にこの街灯の設置が昭和34年だとすれば51年モノということになる。つまりこれは半世紀以上この地にあり続けているものなのかもしれない。
ただし、街灯設置と東京電力プレートの設置が同時に行われたかどうかは不明であるし、何故ほかの街灯にはこの東京電力プレートが付いていないのかなど、疑問点も残る。


水道プレートについても東京電力プレートについてもまだまだ考証が足りずそれらの本当の意味は理解できていないが、色素の抜け方や素材の風化具合から昭和を強く感じることができるポイントになっているのは間違いない。




● 魅力9 その他様々な魅力

これまで桐ヶ丘団地の魅力を様々なカテゴリーに分けて説明してきたが、それらのカテゴリーには収まらない魅力も桐ヶ丘にはあふれている。『魅力9』では私が魅力を感じた情景をカテゴリーに捕らわれずにアップしていく。


≪桐ヶ丘メッセージ≫

桐ヶ丘団地内には筆で書かれたフリーハンドメッセージ(看板)がいくつかある。黄色い地に黒い筆文字で書かれたメッセージを『桐ヶ丘メッセージ』とした。これらの看板は、画一的なフォントで作られた現代の看板に慣れてしまっている我々の世代には特異なものとして目に映る。なんというか、普通の看板よりもしっかりと見ようとしてしまうのだ。
これらの魅力的な看板も老朽化が進み、いつ撤去されるか分からない。そのため画像に残しておこうと考えた。


桐ヶ丘メッセージ01


サビによって判読が難しいが「空巣用心」と書かれている。


桐ヶ丘メッセージ02


「空巣用心」のメッセージは団地内2ヵ所で見ることができる。

同じタイプの丸看板でこんなメッセージも発せられている。


桐ヶ丘メッセージ03


これはいつの話だろうか(笑)

また、上のような丸看板以外にも桐ヶ丘メッセージがある。


桐ヶ丘メッセージ04


桐ヶ丘メッセージ05


最後のメッセージは主語が無いため何を訴えているのかよく分からないがやはりこのメッセージを気にしてしまう。中心よりやや下部から真っ二つに折れた痕があるが、これが人為的にやられたものでないことを本当に強く願う。



≪Made in Kirigaoka.≫

続いてはコチラ。桐ヶ丘メイドの・・・・・


桐ヶ丘ナチュラルメイド


梅干しだ。

まあなんと素晴らしい出来栄えであることか。

桐ヶ丘団地内には梅の木もあるが、これはそこから収穫されたものなのではないだろうか?
普通の住宅街や子供の多い地域では画像のように無防備な状態で梅を放置しておいたら、盗まれるかいたずらをされてしまうのは目に見えている。若年層人口の少ない桐ヶ丘団地内だからこそできるナチュラルメイドなのかと考えるとなんとも皮肉な光景に映る。


見事な桐ヶ丘梅


そのクオリティ(出来栄え)は紀州南高梅を思い起こさせる程だ。桐ヶ丘中央商店街の中華屋さんなどでこの素晴らしい産物を有効利用することはできないのだろうか。




≪手書き看板(プロ)≫


次に記録しておくのは厳密に言うと都営桐ヶ丘団地の魅力とは少々異なるのだが、私が魅力を感じるポイントであるため記録化しておく。
上で述べた「桐ヶ丘メッセージ」と、これから書く「手書き看板(プロ)」は明確に区別したい。

手書き看板(プロ)の作品のひとつをお見せしよう。コレだ。


手書き看板(プロ)作品01


これは桐ヶ丘団地内E区域にある団地内掲示板に貼り出されていた桐ヶ丘中央商店街のイベント告知ポスターである。
この作品で特筆したいのはやはり掲示板のフレームのターコイズブルーと色味を合わせたポスターセンターのブルー文字のコントラストだ。これだけ様々なポスターの貼られた中、この告知ポスターは群を抜いて見る者の目に飛び込んでくる。


手書き看板(プロ)作品02


フレームのマテリアルは木だ。この年月を経た木枠のブルーと文字のブルーのなんとマッチすることか。


手書き看板(プロ)作品03


この1作品だけをご覧いただいても多分私の言うプロの作品という事が伝わらないと思う。もう少し何枚か画像を見ていただこう。まずは、一定のルールに則って文字を書いているという点を確認するため、3枚上の画像にある大売出しの「出し」の書き方(シェイプ)を覚えておいて欲しい。


「出し」が確認できたら下の別画像を見ていただこう。


手書き看板(プロ)作品04


いかがだろう。きちんと一定のルールに則って文字を書いているのがお分かりいただけるかと思う。フォントサイズもうまく調整し、無用な隙間(空白)が生じないようにきっちりと計算されている。またこのオレンジの下地には、ほかのドローイングに見られない緑色も使用している。高崎線を彷彿させるトラディショナルな配色だ。


手書き看板(プロ)作品06


また、上の画像は桐ヶ丘中央商店街にかかげられたものだが、日付が入る部分は必ず赤ベースに黄色文字の配色になっている点などこちらにもしっかりとルールがあるようだ。根岸流で書かれた「福引所」の文字からはこれだけの太さの筆文字を書くための筆を所有していることもうかがえる。

※根岸流についての説明は以下から確認いただけます。
■wikipedia 江戸文字の解説
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E6%96%87%E5%AD%97


実は当初、これらのPOPを見てもこれがプロによる製作物だとは気付いていなかったのだが、先日北区十条仲原の富士見銀座商店街を歩いていたときに衝撃的な出会いをしたことで、上にアップした画像を「作品」と呼ぶようになった。その衝撃的な出会いと言うのがこれだ。


手書き看板(プロ)作品07


こ、これは!


手書き看板(プロ)作品08


、この「出し」とこのブルー、そしてベースになっているこのオレンジ!


手書き看板(プロ)作品09


これは同一人物が製作したものと断定しても良いのではないだろうか。
富士見銀座商店街は北区十条にあり、桐ヶ丘中央商店街とはかなり離れている。徒歩で移動したら30分以上はかかる。以下のマップで道のりを測ってみた。距離は2450m程。




※この距離計測はyahooの「ルートラボ」というサービスを利用しました。まさに「こういうのが欲しかったんだよ!」的なアプリです(笑)マップ内右下の再生アイコンで道のりどおりに歩行が始まります。右上のアイコンで再生速度を×8まで上げると擬似歩行感覚がよりいっそう増すと思います。なお、30分以上かかると書きましたがこれはかなり散歩慣れした方の速度を想定し、4.8m/hとして計算しました。一般的には人間の歩行速度は4.0km/h前後と言われています。


これだけ離れた場所にある商店街なのにこのPOPの共通点の多さを見ると商店街POP書きを生業としている方の作品であろう。富士見銀座商店街でこの作品を見つけてからすっかりこの作者の作品のとりこになっている。生まれたときからPCのある環境でデザインを学ぶ現代のデザイナーには実際に毛筆でこのような文字を書く技術はない。それだけに異常に新鮮に映るのだ。


ただし、ひとつ怖いのはこの書き方が「筆書きPOP集」のようなHow to本を見て書かれた物であり、まったく接点のない別の人物が作っているいう可能性だ。桐ヶ丘の作品も富士見銀座の作品も同じ方が書いていたら個人的にはとても嬉しい。

桐ヶ丘団地は彼(もしくは彼女)の作品が楽しめる場所でもある。桐ヶ丘団地を実際に歩く機会に恵まれた際には団地内掲示板も確認してはいかがだろう?





≪区営桐ヶ丘プール≫

桐ヶ丘アパートE4号館の南には区営プールが存在する。


北区立桐ヶ丘プール01


2010年度も7月16日から営業を開始した、現役の区営プールだ。


北区立桐ヶ丘プール06


桐ヶ丘団地の若年層減少が進む昨今、収益はほとんど無いとは思われるがそこはさすが区営施設である。小さな小さなプールではあるが夏期に桐ヶ丘団地を訪れた場合、水浴びをしながら住棟を眺めるといったマニア垂涎の楽しみ方もできる。天気が良ければ最高のチルアウトができるだろう。(当然水着持参は必須であるが。)
※本ブログでは「チルアウト」≒「和み」ととらえてください。


北区立桐ヶ丘プール04


魅力3でも書いたが、何かの実験施設のような風貌のE4号館は既に居住者がおらず、解体を待っている状態だ。多分2011年のプールシーズンにはこの桐ヶ丘プールからE4号館を眺めることは不可能になる。それどころかこのような解体作業とともに桐ヶ丘プールも無くなってしまう可能性は大いにある。桐ヶ丘団地の旧来の施設や設備に触れる際には一期一会の精神で臨みたい。

住所はコチラ ↓


北区立桐ヶ丘プール05





≪yazawa≫

桐ヶ丘いちROCKな場所を見つけた。
解体寸前のW22B号館にソレはある。


解体寸前のW22B号館で見たROCK魂01


三階の窓に注目だ。


解体寸前のW22B号館で見たROCK魂02


あまり詳しくないのだが、多分、

「のォってるかい?あ~ハン?」

という感じなのだと思う。





≪公的設備と団地景観≫

広い都営桐ヶ丘団地の敷地内には郵便ポストや電話ボックスといった公的設備も存在する。
それらの設備も設置されてから長い時間が経過しているものが多く、現在は街の中ではあまり見かけないタイプの設備が残っている。そのような設備と団地の景観が交わった時にも味わい深い雰囲気が生まれる。


まずはポストのある桐ヶ丘団地の風景。


ポストのある桐ヶ丘の風景


そして公衆電話と桐ヶ丘団地。
まずはN29号館の北にある黄緑電話。


電話ボックスと桐ヶ丘住棟


そしてこちらはW17号館南側のISDN端末タイプ。
どちらも住棟で水平を保って写したもの。ということは電話ボックスのほうがかなり傾いているということか。


ISDN端末と桐ヶ丘住棟


団地内に残るISDN端末はこれまでに使用された事はあるのだろうか?




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魅力1から魅力9まで書き残してきたように、都営桐ヶ丘団地には団地散策の魅力の全てがつまっていると言っても過言ではない。これまでのエントリーで興味をもたれた方は、これらの魅力が消滅してしまう前に足を運ぶことをお勧めする。


以上で桐ヶ丘団地魅力考は終了となる。
次回エントリーでは「【5】 桐ヶ丘レポート 跋」として、本桐ヶ丘レポートの最終エントリーをアップする。次回の総括となるエントリーではレポートのまとめとともに、あるムービーもアップしようと思う。そのムービーがこの桐ヶ丘レポートの最終章には必要な素材となる。





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※当エントリーは東京都北区にある都営桐ヶ丘団地についてレポートしているエントリーの第3回目となります。
このエントリーの前に
桐ヶ丘レポート【1】 序 都営桐ヶ丘団地の成り立ちとその歴史背景
桐ヶ丘レポート【2】 桐ヶ丘魅力考・魅力1~3
があります。





魅力3にてご覧いただいたように桐ヶ丘アパートの旧来の住棟はとても魅力にあふれている。
それら住棟群は団地内にあふれる緑と融合し、ここ桐ヶ丘だけの風景を作ってくれている。
続く魅力4と5ではそれら自然について、魅力6では住棟以外の団地内施設・設備についてまとめていく。



● 魅力4 多様な自然(動植物)の存在

桐ヶ丘団地には豊かな自然があふれている。
春は梅や桜、また様々な芽吹きが、夏は深く濃い緑と青い空が、秋には枯れ葉と夕日のオレンジのコントラストなどが来る者を迎えてくれるだろう。(緑に関してはさすがに冬場はあまり期待できない。針葉樹の緑などもあるが、緑を楽しみたいのであれば別のシーズンを狙いたい。)
桐ヶ丘団地のそれら自然は非常に多彩である。「たかだか団地の敷地内でそんな大げさな」と思われるかもしれないが以下の画像を見ていくうちにその自然が思った以上に厚みがあることに気がつくだろう。桐ヶ丘団地内の自然には生態系が感じられるような大きさがあるのだ。
考えてみればそれも至極当然だろう。昭和40年代に植樹された街路樹は40年の時を経て大きく成長している。
また、団地住民たちの中には自分の住む居住棟の前をガーデンや畑として手を入れている方も多い。
そういった植物の集中する場所には多くの虫が集まり、その虫を狙って小動物が集まり、更にその小動物を捕食する生き物も集まる。桐ヶ丘団地内ではそんな食物連鎖も日々繰り返されている。

造成されたばかりの団地や公園の自然では見られない深い自然がそこにはある。
桐ヶ丘団地の自然の豊かさを感じてもらえるような画像をいくつかピックアップしておこう。


▽美しい緑

まずは桐ヶ丘団地内に緑がどれだけ多くあるかをつかんでもらうため、団地内にある特に印象的な緑を何枚か。これらの植物があることで桐ヶ丘団地から発せられる雰囲気はとても和み度の高い景観となる。


歩道にあふれる緑


上は桐ヶ丘団地を南北に分けるバス通り沿いの風景。歩道の左がバス通り、造成された右手上がN区域となる。
自由に成長している植物群が来るものを迎えてくれる。


桐ヶ丘団地の緑_N53号館とシュロの木


シュロの木も多く存在する。都営桐ヶ丘団地に限らず都営団地にはシュロが植えられていることが多いように感じる。きっと都市計画(団地造成)のコンセプトに沿って選ばれている植物も多いのだろう。


桐ヶ丘団地の緑_団地内の路地


団地内の車の入ってこない通路にもやはりシュロがある。ある種の南国的開放感のようなものも感じられる。


桐ヶ丘団地の緑_立派なソメイヨシノ


一方こちらはソメイヨシノ。この個体は桐ヶ丘団地内で一番大きなものでN33号館横にある。
40年もののソメイヨシノはかなり立派である。
なお、この樹の近くには「なかよし公園」と呼ばれる公園があり、その公園にも数本のソメイヨシノが植えられている。もし4月第1週~第2週辺りに桐ヶ丘団地に行くのであればなかよし公園は是非見ておきたいポイントである。


桐ヶ丘団地の緑_N49号館と鉄柵


桐ヶ丘団地の緑_E13と繁殖する植物


桐ヶ丘団地の緑_居住棟と一体化する緑


キリガオカガーデンの一例04


キリガオカガーデンの一例05


W18号館横にある『オバケアロエ』もみどころのひとつだ。
※下画像ではそのアロエの大きさが分かるように500mlのペットボトルを置いてみた。


キリガオカガーデン_デカアロエ


また、N54号館の南側ではこんなものまで成長中だ。


桐ヶ丘の植物_キノコも生えていた


なんという種類かは分からないが、食べたいとは思わないタイプの真っ赤なキノコがその存在をアピールしている。

どうだろう、いかに桐ヶ丘団地内の自然に厚みがあるかが少しは伝わっただろうか。

他にも緑に囲まれたこんな駐輪場もある。


駐輪場もこのファンタジー加減


団地内部のため車の通りは無い。聴こえてくるのは風の音、木々が風に揺れる音、スズメやカラスなどの鳥、セミなどの虫、蛙など生き物の声といった自然音と、たまに遠くからテレビの音が「アッコに・・・・おまかせ~っ!」と聴こえてくる、そんな空間も特にN区域にはまだまだ多く残っている。
何時間でもそこで休んでいられそうだ。うらやましい環境である。



▽生物ヒエラルキー

これまで見ていただいたように桐ヶ丘団地には多様な緑がある。
そしてその環境は別の生き物のすみかになっている。


桐ヶ丘団地の緑_自然の宝庫


そういった昆虫を狙う捕食者。


桐ヶ丘団地の緑_多様な生き物の例


そしてそれをも狙っているのがネコだ。


人とは接点があるが気をゆるしてはいない雰囲気


多くの団地と同じように桐ヶ丘にもネコは多い。桐ヶ丘の広い敷地では本当によくネコを見かけるのだが、子ネコも多かったので個体数は多分増加傾向にあるのではないかと思う。


桐ヶ丘団地の緑_桐ヶ丘ヒエラルキーの頂点02


たいていのネコの風貌からは半野良、半飼い猫といったイメージを受ける。
人が近づくことはできるが警戒心は強い。一定の距離まで近づくとこちらが観察される。


桐ヶ丘団地の緑_桐ヶ丘ヒエラルキーの頂点03


桐ヶ丘団地の緑_桐ヶ丘ヒエラルキーの頂点01


桐ヶ丘のネコは鳥を襲う程度の野生は残している。
団地の画像を取り残している際にもその狩りの跡が見受けられた。

※下に並ぶ二つの画像はネコに捕食されたハトとスズメの画像です。血は飛び散ったりしていませんが襲われてしまったそのままを画像に収めていますので気分を害する方もいるかと思います。拡大閲覧はご自身の判断で行ってください。


リアルな生存競争の結果     生態系が循環している


以上のような深みを持つ桐ヶ丘の自然だが、やはり新居住棟の建設などで形がどんどん変わっている。しかたの無いところだ。


無くなる桐ヶ丘の自然



▽ミクロ視点からの緑

桐ヶ丘の自然はミクロな視点で鑑賞しても楽しめる。特にコケ類は種類が多く、植物好きならば是非チェックしておきたいところだ。以下にそのバリエーションを残しておく。まだまだこれら以外にも極小視点で見えてくる植物はたくさんある。自分だけのミクロプランツを探してみるのも面白いかもしれない。


コケ類の豊富さも見逃せない


キリガオカミクロプランツ01


キリガオカミクロプランツ08


キリガオカミクロプランツ04


キリガオカミクロプランツ06


キリガオカミクロプランツ02


キリガオカミクロプランツ03


キリガオカミクロプランツ05


キリガオカミクロプランツ10


キリガオカミクロプランツ11


いかがだろうか。これが先に「夏休みの自由研究は桐ヶ丘の植物の種類についてでバッチリだ」と書いた理由である。これらの胞子や種子はいったいどこからやってきたのだろうか。
これらの桐ヶ丘の自然を見て、自分の居住環境の周囲にどれくらい植物の種類があるかということを考えると桐ヶ丘団地のそれは桁違いの数になることは間違いない。





● 魅力5 キリガオカガーデニズム

これは上に書いてきた魅力4と通ずる部分も多いのだが、庭のスペースを利用して人為的に植物を育てていることをガーデニズムと定義した。

居住棟によっても差異はあるのだが、庭のスペースで観るための植物や食用に野菜を育てている家庭が多い。そういった人の手の入った植物を庭として楽しめるのも桐ヶ丘団地の魅力と言えよう。
魅力たっぷりのキリガオカガーデンズ(一部ファーム)をいくつかアップする。


▽キリガオカガーデンの一例


キリガオカガーデンの一例02


キリガオカガーデンの一例03


キリガオカガーデンの一例


キリガオカガーデンの一例01


キリガオカマクロプランツ07


桐ヶ丘団地の緑_団地側からバス通りを見下ろす


もう下のようなガーデンレベルになってくるとラピュタ・ロボットが現れそうな雰囲気さえ漂う。


ラピュタロボット登場を思わせるキリガオカガーデン


こういった庭をガーデンとして楽しんでいる形跡も見受けられた。


庭を楽しんでいる模様


うらやましい限りである。




▽キリガオカファーム

桐ヶ丘団地には家庭菜園もたくさんあり、それらも和みの対象として十二分に楽しめる。ここでは桐ヶ丘団地内にある畑を『キリガオカファーム(桐ヶ丘農場)』と呼び、その成果をいくつかピックアップする。


桐ヶ丘ファーム_シソは緑も紫も好みに合わせて


「お父さん、ひやむぎゆでるから大葉とってきて。」というお母さんの声が聞こえてきそうだ。


桐ヶ丘ファーム_トマト01


桐ヶ丘ファーム_トマト02


ニンジン畑ではこんなストーリーが展開中。


桐ヶ丘ファーム_ニンジン畑にて01


これが子供に対するものなのか、大人に対するメッセージなのかで見え方ががらりと変わる。いずれにしてもゴミを畑に捨てては駄目だ。そりゃ鬼も出る。


桐ヶ丘ファーム_ニンジン畑にて02


一方キュウリは・・・・


桐ヶ丘ファーム_キュウリも育つ01


桐ヶ丘ファーム_キュウリも育つ02


見事な成果である。
画像は無いがキリガオカファームでは他にもナス、ピーマン、カボチャ、メロンなども順調に育っていた。




● 魅力6 居住棟以外の団地内施設

桐ヶ丘アパートの居住棟が魅力的であることは先に述べたが、団地という生活空間には居住棟以外にも多くの建造物や施設、設備が存在する。そういった設備部分も強い個性を持っており、素通りしてしまうのは惜しい魅力を内包している。

魅力6ではそのような設備で気になったものを順にアップしていく。
まず着目するのは公園、集会所、学校などの公共部分だ。



▽学校施設

この桐ヶ丘レポートの第一章『桐ヶ丘レポート【1】 序 都営桐ヶ丘団地の成り立ちとその歴史背景 』のエントリーでも少し触れたが、1975年(昭和50年)を境に桐ヶ丘に住む子供たちは減り続けている。これまで桐ヶ丘団地内に小学校は桐ヶ丘小学校桐ヶ丘北小学校の2校が存在したが2002年に合併し、現在は桐ヶ丘小学校のあった場所が『桐ヶ丘郷小学校』となっている。(読みは「きりがおかきょう」でも「きりがおかごう」でもなく「きりがおかさと」と読む。『きりさと』の呼び名が定着しているようだ)
(合併に際し、小学校名を桐ヶ丘小学校のままで統合せず「郷」の文字を入れたところに強い意志を感じる。確認をしたわけではないがこの郷の一文字は赤羽郷から取ったものだろう。戦後の混乱期を乗り越えてきた強さを見習ってどんな困難にも立ち向かおうという意味が込められているのだろうか。※赤羽郷についての説明は第一章を参照の事。)


解体直前の桐ヶ丘北小学校01


上は2010年7月に取り壊しが始まった(と思われる)桐ヶ丘北小学校だ。


解体直前の桐ヶ丘北小学校02
※工事開始は平成22年7月26日からとある


廃校になってから8年が経過し、解体直前の校舎はこのような状態になっていた。


解体直前の桐ヶ丘北小学校03


解体直前の桐ヶ丘北小学校04


窓の開閉がなくなってしまった校舎には植物が絡みつき、とても東京23区内にある小学校とは思えない空気を作っていた。
桐ヶ丘北小学校周辺を歩いてみると通用口(裏門)辺りにガリバー旅行記の壁画を発見。後日調べたところ、この壁画は校内で行われた壁画イラストコンテストに応募された当時5年生の女子児童のイラストを元に、昭和62年に壁画サイズに描き起こしされたものだそうだ。


解体直前の桐ヶ丘北小学校05


校舎がなくなってしまう前に画像に残せて幸いであった。

そうやって小学校の回りをぐるりと歩いてみたが、やはり児童が誰もいない学校の校庭は寂しさをよりいっそう増幅させていた。


解体直前の桐ヶ丘北小学校07


解体直前の桐ヶ丘北小学校06


どこか山村の学校かと思えてしまうような情景となっていた。


※2010/10/28追記
閉校後の桐ヶ丘北小学校の跡地利用について北区が発表したpdfを見つけた。以下はそのURL。

■北区公式発表 北区役所からのお知らせ
http://www.city.kita.tokyo.jp/docs/digital/057/atts/005710/attachment/attachment.pdf

近年、少子化に伴ってこれまで地域にあった学校が廃校となり、残った施設をそのまま地域交流スペースやスポーツ施設として再利用する動きが盛んになっているが、どうも桐ヶ丘北小学校については当てはまらないようだ。pdf内には北区役所からの発言としてこんな部分がある。
「なお、校舎につきましては、築後42年を経過しており、地域安全の確保の面からも早期に除却することが望ましいと考えています。」
桐ヶ丘北小学校施設は再利用はされず、もともとの所有主である東京都に返還されるようだ。



▽公園、集会所

上記のように団地内の子供の数は減少の一途をたどっている。また、近年子供たちは外で体を使って遊ぶことが少なくなってしまっている。団地内には子供の遊び場としていくつかの公園が設けられているがそれらの公園は無人のことが多く、忘れられたように置いてある遊具からはもの悲しい波動がひしひしと伝わってくる。これはやはり「過去にこの場所は子供たちであふれていたのだろう」という想像が働くからだ。
当時の桐ヶ丘団地の姿を直接見たことのない私でもそういった想像ができるのだから、実際に団地に住んでいた方や、近隣に暮らしていて友達と遊ぶ時に団地内の公園を利用したといった方には尚のこと現在の公園が寂しい状態にあることが伝わるのではないかと思う。


≪桐ヶ丘中央公園(南エリア)≫

桐ヶ丘団地で一番メインの公園がこの桐ヶ丘中央公園である。


桐ヶ丘の公園_桐ヶ丘中央公園01


現在は主にお年寄りたちの井戸端会議場としての利用がメインであり、週末や夏休みなどの長期休み以外に子供の姿を見かけることは少ない。


桐ヶ丘の公園_桐ヶ丘中央公園04


桐ヶ丘の公園_桐ヶ丘中央公園02


上の画像は土曜日の午後2時頃の画像だ。すべり台やブランコなどの遊具はいくつか確認できるが子供の姿は全く無い。かつては子供たちが取り合いをしたであろう動物型の遊具も最近は使われていないような雰囲気を漂わせていた。


桐ヶ丘の公園_桐ヶ丘中央公園03


なお、北区飛鳥山(あすかやま)の飛鳥山公園には同タイプの遊具が置かれているが、まったく違う人生を歩んでいるようだ。こうなってくるとやはり"兄弟"という表現を使いたくなる。


飛鳥山公園のクマ遊具
※この画像は飛鳥山公園に設置されているものです


お世辞にもキレイとは言えないがきちんとペイントされ、なにより今も人が使っている点が決定的に異なっている。鼻の折れたクマがいだくのは、自分の仕事をやり遂げた満足感か、それとも子供と遊べなくなってしまった悲しさだろうか。



≪桐ヶ丘中央公園(北エリア)≫

桐ヶ丘団地を南北に分けるバス通りの北側にも公園は続いている。
昭和40年代にはここで団地主催のヒーローショーなどの催し物も子供たちのために開催していたそうなのだが・・・


桐ヶ丘の公園_中央公園北エリア02


現在は公園内で人影を見ることは少ない。今回、このレポートを書くにあたって集めた桐ヶ丘団地関連の資料の中にはこの中央公園に人がぎっしり集まり、楽しそうに遊んでいる写真が確認できる。現在とは大きな違いだ。


桐ヶ丘の公園_中央公園北エリア01


桐ヶ丘の公園_中央公園北エリア02


設置されている小さなイスも相当なダメージを受けており、ペイントも剥げている。


桐ヶ丘の公園_中央公園北エリア04


イスによっては「そういう焼き物の技法かよ」と思ってしまうほどにひび割れダメージが大きい。


桐ヶ丘の公園_中央公園北エリア05


※昭和30年代後半から40年代半ばまで桐が丘団地にいらっしゃったnorah-mさんよりコメントをいただきました。このひび割れのイスは多分設置当初からこういう仕上げだったと記憶しており、当時はこれを「お洒落だ」と思っていらっしゃったそうです。貴重なリアルなコメントをありがとうございます。


もともとのこの場所の都市計画コンセプトとは異なっているだろうが、人が少なく子供がはしゃぐ声も無いうえに、緑も多いのでゆったりしたい場合には使える場所である。(ただし初夏から秋にかけて訪れる場合には虫よけスプレーは必須だ)



≪N13号館南側えんばん公園(N地区第三集会所前)≫

N13号館の南にある公園にはUFOを思わせるような遊具がある。このようなモチーフからはやはり高度経済成長の時代に作られた影響が見て取れる。


桐ヶ丘の公園_N13南側公園01


当時、桐ヶ丘団地に引っ越してきた小学生の男の子がこのUFOを目にしたらそれはさぞテンションが上がったことだろう。なおこの遊具は2種類置かれている。


桐ヶ丘の公園_N13南側公園02


一方は上のようなティーカップ型(半タマゴ型?)のもの。


桐ヶ丘の公園_N13南側公園02


もうひとつがUFOのような近未来型である。
この近未来型の遊具のディテールを見ようと、バイキンマンのツノのような形状になっている部分に近付いたところ・・・・


バイキンマンの


桐ヶ丘の公園_N13南側公園04


未来っぽい風貌のくせになんともアイデアを生かして作られた遊具である。(笑)
週末にはこの公園で数人の子供の姿を見かけることもあるが、やはりその数は少ない。


norah-mさんからいただいたコメントによるとこの公園は『えんばん公園』と呼ばれていたそうです。この遊具をUFOに見立てる見方は間違っていないようですね。コメントありがとうございます。



≪N31号館南側なかよし公園(N地区第二集会所前)≫

N31号館南側にある「なかよし公園」は桜の季節には是非見ておきたい公園である。


桐ヶ丘の公園_N31南側なかよし公園01


【魅力4 多様な自然】の部分でも少し触れたがこの公園内には数本のソメイヨシノが植えられており、4月には見事な桜が楽しめる。個人的にはいくつかある桐ヶ丘団地の公園の中でも特に気にいっている公園である。


桐ヶ丘の公園_N31南側なかよし公園03


桐ヶ丘の公園_N31南側なかよし公園02


なお、この亀型遊具も兄弟が飛鳥山公園にいる。


飛鳥山公園のカメ遊具
※この画像は飛鳥山公園に設置されているものです


桐ヶ丘の公園_N31南側なかよし公園04


ただそんな公園にも人の姿は無く、亀型と馬型の遊具がポツンと置かれているだけである。
砂場はカチカチに固くなってしまっている。



≪N50号館西側公園(N地区第一集会所横)≫

N地区第一集会所の横にも公園がある。この公園は集会所の建物の雰囲気を含めて楽しめるのではないかと思う。


桐ヶ丘の公園_N50号館西側公園01


集会所は平屋建て。その建物と風景との配色が抜群なのだ。
建物の薄いベージュ色を背景に、その屋根の赤と電話ボックス屋根の赤、公衆電話の黄緑と集会所入り口ドア右手の黄緑プレート、自動販売機のブルーと建物側面のブルーの対比。パーフェクトじゃないか!(笑)
漠然と「離島にある公民館」というイメージが浮かんだのだがそれは私だけの感覚だろうか。またこの公園の遊具は他の場所と比べると比較的新しいような印象を受ける。この点も他とは少し違った雰囲気を生み出している一因なのだろう。


桐ヶ丘の公園_N50号館西側公園02


近年になって遊具の入れ替え等があったのかもしれない。(ただし近年とは言っても、最低でも15年程度は経過している印象を受けるが。)


桐ヶ丘の公園_N50号館西側公園03


中央公園や他の公園では少ないながらもたまに子供の遊ぶ姿を目にするが、この公園で子供の姿を目にしたことはまだ無い。



≪E12号館北側公園(E地区第一集会所横)≫

再開発が進むE区域にも公園がある。


桐ヶ丘の公園_E12北側公園01


ここにはE地区の第一集会所もある。
この公園の遊具はN13南側公園のUFO遊具とマテリアルの劣化具合が同じくらいであるような印象を受ける。どちらも風化が進んでおり、素材本来の色素もだいぶ飛んでしまっていた。そこから考えると団地造成から比較的早い時期(昭和40年代前半位)に設置されたものではないだろうか。


桐ヶ丘の公園_E12北側公園01


この公園でひときわ目を引くのが中央にデンと構えるなんともアヴァンギャルドなすべり台遊具である。


桐ヶ丘の公園_E12北側公園02


大阪万博が行われたのは1970年だが、その頃には「太陽の塔」に象徴されるような一種の岡本太郎ブームのようなものがあったと聞く。この遊具はそういった時代の影響も受けているのであろうか。


norah-mさんからいただいたコメントによると「このアヴァンギャルドなすべり台は1970年以前から設置されていたように思うが当時のアートの潮流は影響していたかもしれない」とのことです。やはり時代が感じられて良いですね。



以上のように、都営桐ヶ丘団地は居住棟以外の部分にもたくさんの魅力を持っている。居住棟だけでなく、その周囲にある環境全てが絡みあって魅力を作り出しているのだ。



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以上が桐ヶ丘魅力考・魅力4~6となる。

次回エントリーからは都営桐ヶ丘団地がいかに長い歴史を持っているかが伝わるような魅力をまとめていく。



※2010/10/03桐ヶ丘レポートにいただいたコメントを元にいくつかの情報を追記



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※当エントリーは東京都北区にある都営桐ヶ丘団地についてレポートしているエントリーの第2回目となります。
このエントリーの前に『桐ヶ丘レポート【1】 序 都営桐ヶ丘団地の成り立ちとその歴史背景』があります。




●都営桐ヶ丘団地の魅力を書き残す前に

今回、このレポートを作成するにあたり、桐ヶ丘団地みどころマップを作成した。
マップを併せてご覧いただくとよりいっそう疑似体験度が高まると思う。
(実際の散策の際にも役立つよう、歩き移動に適した縮尺にしてある。使いやすい歩き移動用地図は散歩マニア必携だ!)


都営桐ヶ丘団地みどころマップ低解像度版


なお、当ブログで使用しているfC2ブログのサービスでは1ファイル500kb以上のファイルがアップできないため、上の画像はそれに収まるように作成した『見どころマップ低解像度版』となる。高解像度版は別途アップローダーで外部にアップしたので実際の散策用にプリントアウトしたり、細かな文字まで追いかけたい場合には高解像度版をご利用いただきたい。


■桐ヶ丘団地みどころマップ高解像度版外部アップローダーページへのリンク
http://aliceuploader.ddo.jp/up5/dl.cgi?30
※上記URLページ内にある「ダウンロード」ボタンをクリックしていただくことでzip圧縮された高解像度マップのpngファイルがダウンロードできます。ファイルサイズは1.64M程度です。


さて、桐ヶ丘団地の魅力を書いていく前にいくつか留意点を記そう。

まずは団地の地形的な特徴についてだ。
これまでにも書いているように桐ヶ丘団地はとても広い敷地面積をもっている。下の3区域色分けマップを見ていただくと分かりやすいが、その広さ故、居住棟はエリア分けされていてそれぞれ北エリアは『N地区』、西エリアは『W地区』、東エリアは『E地区』と3つの区画に分けられている。それぞれの居住棟の頭にはそのアルファベットが付けられ、例えば『N32号館』のように呼ばれるのである。


桐ヶ丘3区域分けマップ


なお、この広い団地ではなんとW地区とN地区の最寄り駅が異なる。例えば桐ヶ丘中央商店街に行く場合は都営三田線の志村坂上駅が最寄りとなるし、N地区にある給水塔を見たいのならば最寄り駅はJR赤羽駅である。目的に応じてアプローチを変えるのが桐ヶ丘団地を攻める際のかしこい選択だ。

もうひとつ留意点となるが、桐ヶ丘団地では現在『桐ヶ丘団地再生計画』が進行中である。
この再生計画は1996年から行われており、4年毎を1期間とし、1期 1996年~2000年、2期 2000年~2004年、3期 2004年~2008年、4期 2008年~2012年、5期 2012年~2016年、6期 2016年~2020年まで計画されている全24年にも及ぶ桐ヶ丘団地再生の工事である。


※WEB上を巡ったところ、東京都環境局の『東京都環境影響評価条例ホームページ』内にこの再生計画関連のpdfファイルを見つけた。この事業が環境に与える影響を予想したものだが、この中に再生計画概要と再生計画完了後の地図が記載されたpdfを見つけることができた。平成7年発表のものなのでこの概要がどこまで実行されるかは不明。都知事が青島幸男氏時代のものだった。

■東京都環境影響評価条例ホームページ内 環境影響評価書案(桐ヶ丘立替え事業pdf直リンク)
http://www2.kankyo.metro.tokyo.jp/assess/pdf/150_an.pdf


この計画によって、昭和30年代に建造されたW区域、E区域の建物はどんどん取り壊されて新たな居住棟に生まれ変わっている。特にW区域の建て替えはどんどん進行しており、この再生計画が完了する2020年までには昭和の時代に建てられた建物はほぼ無くなってしまうと思われる。残存するW36号館の周辺で住民の方に話を伺ったところ、「あと2年したら新しい棟に移るのよ」と教えてくれた。なお、上にURLを貼ったpdfの中には旧来の桐ヶ丘アパート住棟のうち60棟を建て替えるとの記述がある。2010年7月現在、取り壊されてしまった住棟はN区域0棟、W区域25棟、E区域22棟の計47棟である。つまり桐ヶ丘再生計画が完了する2020年までにあと13棟が取り壊されるということだ。
※取り壊されてしまった住棟数については私が実際に桐ヶ丘団地を歩いた際にカウントしたもので、公式発表などの正確な数字を利用したものではありません。多少の誤差はあるとお考えください。


私がこの桐ヶ丘レポートをまとめようと考えたきっかけも、この再生工事によって高度経済成長期を経験してきた桐ヶ丘団地の姿がどんどん消えてしまっており、その時代を通過してきた都営住宅建築物の姿を残しておきたいという気持ちが強かったからである。
このように日々桐ヶ丘団地の景観は変化していっている。当レポートの内容も2010年7月時点のものと理解していただきたい。

それでは以下にいくつか魅力を書いていこう。
まずは都営桐ヶ丘団地の代名詞とも言ってよい給水塔から始めたい。




● 魅力1 給水塔とそれを含めて作り出される景観

まず桐ヶ丘アパート一つ目の魅力として給水塔をあげよう。
桐ヶ丘団地の給水塔は昭和30年代前半に作られたものであるが、その時代に作られた中層建築アパートではよく見られたものだ。現在でも給水塔の残る団地は多数あるが、1つの団地に2本が残存する団地は少ない。
給水塔は桐ヶ丘団地の2大ランドマークだ。


1つはN23号館の北に位置するもの。 (下画像参照)


N23号館北の給水塔


もう1つはE47号館の南西に位置するもの。 (下画像参照)


E47号館南西の給水塔


これらを団地建造物に被せて、あるいは並べてアングルを作ることでとても魅力的な風景を切り取ることができる。以下は給水塔と桐ヶ丘アパート居住棟を写しこんだ画像となる。


◆ N区域給水塔

N23号館と給水塔


手前からN19、N22、給水塔


N21号館と給水塔



◆ E区域給水塔

E区域給水塔と高層棟E47


遠方の給水塔も画になる


夕日と桐ヶ丘団地給水塔


万人に共通する感覚では無いとは思うが、『タワー(給水塔)』と『都営集合住宅建築』の組み合わせは高度経済成長期の先進的な居住スタイルがより強調されるようで個人的にはとても楽しめる組み合わせである。

なお、E47号館近くのほうの塗装の新しい給水塔だが、こちらの塔にはあまり知られていないエピソードがある。
この給水塔の最上部を見るとなんだか展望台のような造りになっている。


E区域給水塔の上部


よく見ると板(もしくはネット?)のようなもので窓が塞がれていて展望台にはなっていない。
初めてこの給水塔を見たときには「展望台があるのか!」と入り口を探し、実際には登ることができないと知ってガッカリしたのを覚えている。
ではこの部分は何なのだろうか。
自分も長い間この形状になっている理由は知らず、「もしかしたら昭和40年代頃には上に行けたのかな?」と勝手に想像を膨らましていた。しかしそうではないと最近になって知った。北区中央図書館にて借りてきた『桐ヶ丘三十五年史』という記念誌に答えがあった。この中に都営住宅公社(現東京都住宅供給公社)の職員が寄稿しており、そこにはこの展望台のように見える部分についての記述があった。
実はやはりこの塔の上部を展望台にする計画があったそうなのだ。理由は2つ。1つには日本で最初の巨大団地として成長する姿を見にやって来る全国各地からの見学者や海外からの視察団にこの展望台を使って桐ヶ丘団地を見てもらおうという理由から。もう1つには給水タンクのメンテナンスが安全に行えるようにという理由からだったそうだ。
しかし、この計画は当時の上司に工費のムダ遣いだと大変叱られてしまい、泣く泣く現在のデザインに変更したのだそうだ。確かに後から建築されたN区域のほうの給水塔にはこんな窓のような作りはない。
(ただし、現在の展望台風の部分の形状も、当初思い描いていた『展望台』とは全く違っているそうだ。)

この展望窓については自分もかねてより気になっていた点だったが、このようにして答えを知ることができモヤモヤがひとつ解消された。

なお、W区域にある案内板を見ると、上記2本の給水塔以外にもう1本の給水塔を認めることができる。

桐ヶ丘W区域、E区域案内図     過去に存在したと思われる幻の給水塔

E24号館の北側に給水塔の文字があるが、現在その場所に給水塔は無い。E号館のその周辺にあったそれまでの建造物は桐ヶ丘団地再生計画によって取り壊され、新居住棟建設が予定されている。(※6期、全24年の桐ヶ丘団地再生計画は1996年に開始されており、第1期の解体工事もこの時から始まっている。もしかしたらそのタイミングでここにあった給水塔が解体されたのではという仮説は成り立つ。私が初めて桐ヶ丘団地を訪れたのは2001年だが、その時には団地の中に給水塔は2本しかなかったように記憶している。)
また、これまで確認した資料の中には特にこの3本目の給水塔についての記述は無く、いつごろ建築され、いつごろ解体されたのか、もしくは建設自体が行われていないのかなど詳細は不明のままである。




● 魅力2 桐ヶ丘中央商店街

桐ヶ丘中央商店街とは、E28B号館とE28A号館にはさまれたスペースにある団地唯一の商店街だ。(団地内には他にも酒屋や生協はあるが商店街はここだけ。)


桐ヶ丘中央商店街はこの位置


昭和30年代に作られ、昭和40年代後半から昭和50年代前半にかけて全盛を誇った商店街だ。
現在は桐ヶ丘団地内に子供(若年層)の絶対数が少なくなってしまったことに加え、高齢者が増えてしまったことで利用者はまばらになってしまっている。そのため最盛期当時の商店街設備が今でも使われており、時間の流れがおかしくなってしまったような感覚に捕らわれてしまう空間なのだ。


桐ヶ丘中央商店街入り口


ではこの商店街のポイントを見ていこう。
上の画像はE28B号館の南側から写したものだが、ここが商店街の正面入り口となる。このE28B号館下の通路を抜けて商店街の中に進んでいく。


enter the 桐ヶ丘中央団地商店街.


居住棟に挟まれた区画に入った瞬間、空間の雰囲気が変わるような印象を受けるだろう。
それはやはり昭和30年代、40年代に使われていたものが今なお残っているからだ。当時が分かる方ならば、『そのスイッチ』があることで自分の記憶も瞬間、当時に戻ることだろう。
辺りにはお母さんと一緒に晩ご飯の買い物に来た子供たちを遊ばせるために設置された、当時の遊具(プレイマシン)が置いてある。


出迎えてくれるカッコイイ乗り物たち


私は成人男性としては小柄なほうだが、それでも遊具はどれも小さく見える。
かなり低い年齢層を想定していたようだ。


思った以上にスケールは小さい


1回20円とある。
当時からこの値段だったのだろうか。


いちいちディテールがカッコイイ


やはり下の画像のように生き物タイプだとつい感情を入れて見てしまう。
この感覚は映画トイストーリーを見たことがあるせいだろうか。
昭和40年代にパンダモチーフなのだから当時の人気は相当なものだっただろう。
(上野動物園でカンカンとランランが公開され、日本中でパンダブームが巻き起こったのは1972年(昭和47年)の事)


何人の子供たちがそのボディに入ったことだろう


乗り物はどれも既にもうかなりのダメージを受けている状態である。 見れば左足裏にも補修の跡がある。


頭に開いた穴が怖い


パンダの頭には何故か正円形の穴が。構造上の問題か?
どうみても痛々しい。


商店街で現在も営業しているおもちゃ屋さんを後ろに


このプレイマシンの奥にあるおもちゃ屋さんはまだまだ現役。今も営業されている。

店頭に置かれたこのタイプのクレーンマシンは小学生のときに出かけたデパートに設置されていたような気がする。


桐ヶ丘団地のおもちゃ屋さん


デュエルではなくデェルなわけだがここはそれでいいのだ。
いや、こうでなければいけないのだ。変えてはいけない。
チップとデェルみたいだ。


商店街内にはもう1箇所、このようなプレイマシンの設置してある場所がある。


”ステキフォント”が光る


タカハシさんの軒下だ。


看板の下にも遊具が並ぶ


この地を訪れた方たちの記憶に強く残るのが彼だ。


ウルトラマンではなく流星人間ゾーンだ


彼はよく『ウルトラマン』と間違われるのだがウルトラ兄弟ではなく正しくは『流星人間ゾーン』である。


流星人間ゾーン


残念ながら私は世代が違っているためゾーンのことはよく知らない。
ただ、子門 真人氏の歌う主題歌を聞く限り、その内容は10歳以下あたりがターゲットになっているようだった。そういった意味ではこのマシンの利用者層と合致するヒーローだったのかもしれない。
なお、調べてみると流星人間ゾーンの放送は1973年(昭和48年)4月2日から同年9月24日まで全26話が放送されたようである。2クール続いているところを見るとそれなりに人気があったシリーズなのかと思う。仮に桐ヶ丘団地にいるこのゾーンが1973年生まれだとするならば私とこのゾーンは同じ年齢である。


肩から左手がもげてしまっている


現在、この地にいるゾーンはこんな姿になっている。
左腕から先が無くなってしまっているのだ。


しかしそれでも彼は悪がやってくれば、


ちょっと待て、


未だ正義の味方であり続けているゾーン


と、僕らを救うために悪に立ち向かってくれる。
『もう守らなくてもいいんだよ』と彼に伝えても、彼は今日も桐ヶ丘の平和を守ることをやめようとはしない。腕がなくなったって守り続けている。もう40年近くずっとだ。


流星人間ゾーンは今日も桐ヶ丘の平和を守る


そんな彼はいつ桐ヶ丘から旅立っていくのだろうか。きっと彼がいなくなってから町のみんなは大切なものを失ってしまったことに気づくんだ。
ありがとうゾーン。


ゾーンやパンダ以外にもいろいろなプレイマシンが残っているが、それぞれにストーリーがあるのだろう。
パンダやゾーンといったモチーフからも連想できるように、やはり昭和50年前後の桐ヶ丘中央商店街はさぞ活気に満ちていたのだろう。



タイプはいろいろある


商店街を見回せば営業している店舗は15件ほどだろうか。


そのほかにもいろいろなお店が現役


だが、シャッターが閉まっている部分も多い。


シャッターが閉まっている部分も多い


そんな風にして見回す商店街自体の建材も見たことの無いタイプ。


まるでアイスクライマーのようなパネル


やはり図面では見えてこないこういうディテールはしっかり見ておきたいところだ。
例えば肉屋さんの軒にはこんな装飾がある。


見逃したくないプラカッティング01 見逃したくないプラカッティング02

見逃したくないプラカッティング03 見逃したくないプラカッティング04


チキンの綴りが違うとか、ソーセージがサウス-エイジになってしまっているとかそのへんはスルー。感じたいのはこの質感とオリジナルのデザインのセンスだ。例えば曲線(Rライン)が全てベジェ曲線ではないとか(要は手書きということです)アルファベットも1文字1文字手で切り出しを行っているとか(例えばBEEFの最初のEと次のEは微妙に形状が異なっている。こういった部分から現代のプロダクトでは生まれてこない味が発せられるのだと思う。)、日本語(漢字・ひらがな・カタカナフォント)を一切使わない清さとかそういう部分だ。
個人的にぐっと来るのはポークとチキン。デフォルメが秀逸。ビーフの頭のモジャモジャと物悲しげな瞳も見ておきたい。




冒頭でも少し触れたが商店街の突き当りはE28A号館になっている。


基地顔か中央商店街の位置


この商店街は四方を建物に囲まれたつくりの中にあるのだ。


E28A号館を仰ぐ

このE28A号館の下にあるのが『あさま屋』だ。

子供は少ないが夕方になるとここに集っている


このあさま屋さんの前にはアーケードゲームの筐体も置いてあり、数少ない小学生たちは夕方になるとこの辺りに集まっている。放課後に駄菓子屋さんにみんなで集まって買い食いをしながら遊ぶ感覚は、私のような第2次ベビーブーム世代も現代の小学生たちもあまり変わりが無いようだ。


コンセントは抜かれていた


以下の画像には自身が写り込んでしまっており見栄えも悪く、非常に図柄を確認し難いのだがとても気になったものだったのでアップしておこう。下画像は「ワールドサッカー」と書かれたコインをはじいて遊ぶアナログゲームの筐体なのだが、その盤面デザインを見ていると・・・・・おや?


写りこみすみません画像その1


・・・おやおや・・・?


いやまてよでも・・・・


写りこみではなく高橋先生に許可は取っているのかという話だ(笑)


ちょっとまて、馴染みの古本屋で確認だ。
これは『高橋先生に許可は取っていますか?』という話だ。
全く同じアングルのものはそこには無かったが、一番近いのを選んできた。
1970年代生まれの方は多くの方が共感できるのではないだろうか。








ほら、スパイクの裏の見え方とかこのバランスでしょ。









一番イメージの近いヤツを選んできた



いやだけどなぁ・・・・、



コピーかオリジナルかが争点だ


もはやこうなるとオリジナルになるからOKなのか?手先がペンチみたいだよ(笑)


このサッカー少年のコインゲームの位置から数メートル右手には団地棟の柱が立っており、柱表面を覆うタイルにはびっしりとシールが貼られている。ガムの包装紙が圧着するタイプのシールになっている商品があったが、多分その類だ。よく見るとそのシールにはどれもはがそうとした痕が残っており、何のシールだったのか判別し辛くなっている。自分が小学生の頃は確か『ロボダッチ』というキャラクターで同様のシールがあったように思ったがそれとも違うようだ。


柱のタイルはシールだらけ(多分ガムのおまけのやつ)


よく見ていったところ判別できる部分が残っていた。


かろうじてミクロマンと読めるシールを発見


シール下部に「ミクロマン」の文字を発見。


比較的図柄が残っているもの


こういったものも時間を引き戻すスイッチになる。

タンスや机など特にそうなのだが、生活の身近なところに貼られて時間が経過したシールというのは何故こうも物悲しげなのだろう。この場所にあるシールは「はがそうとした痕跡」があるだけによりいっそう悲しい感じがするのだ。友達みんなと遊んでいてテンションがあがって調子にのり、ミクロマンシールを貼り付けたはいいが、学校の先生にばれて「シールをはがして来なさい!」と怒られ、シールをはがそうと何時間も頑張ってみたが予想以上に圧着具合がしっかりしておりぜんぜんシールがはがれず泣きながらあさま屋さんに謝罪しに行った、なんてストーリーはどうでしょう?(笑)


E28A号館の下を潜り抜け、南を向いてあさま屋さんを見るとこのような情景。


E28A号館の下を抜け南向きのアングルで


その人の育ってきた時代や環境によって何が琴線に触れるかはまちまちだが、こういったものに心を揺さぶられる方もいるのではないだろうか。


今は使われていないようだ


花屋の軒の電話番号は7桁だ。

電話番号7桁は1996年で終わっている


そのほかの店舗でも電話番号が7桁のままになっているところは多い。


電話番号7桁表記の店舗もまだ残る


東京では1996年に8桁化(正確には市外局番も含めた10桁化)されているのでこれらはそれ以前に作成されたものということになる。


このような情景の残るのが桐ヶ丘中央商店街である。


なお、バス通りに面したE35号館、E36号館の1階部分にも商店が並んでいる。
『肉のクマザワ』で揚げたてのコロッケを買って桐ヶ丘中央公園でしばし休息というのも楽しみ方のひとつではないだろうか。


桐ヶ丘アパートE35号館前


『サンキュー。おお!ニク、肉!』の語呂合わせも是非味わっておこう。


パンダ、ゾーン、サッカー少年、ミクロマンなど、話の脱線具合を見ても分かるように桐ヶ丘中央商店街は私にとって『スイッチ』だらけの空間なのである。


なお、この商店街の西隣のブロックは再生計画による建て替えが進行しているブロックである。
いつ桐ヶ丘中央商店街が無くなってしまっても(あるいは生まれ変わってしまっても)おかしくない状況にある。





● 魅力3 都営団地建築物

やはり桐ヶ丘アパートの魅力を挙げる上で外せないのはその建築物がかもしだす雰囲気だろう。 しかし私は建築の勉強をしているわけではない。都営集合住宅についての専門知識もほとんど無いことをはじめにことわっておく。
今回この桐ヶ丘レポートを書こうとして集めた資料をを見ると桐ヶ丘アパートの居住棟建築にも『フラット型』『ポイント型』『メゾネット型』などいろいろなタイプがあるそうだが、以下にアップした画像は単純にその建物を見た瞬間に『なんだか魅力を感じるな』と思ったか否かという視点から選んだものがほとんどである。
そのため純粋な団地マニア(否定的な意味は含みません)な方の団地建造物の捕らえ方とは違った視点で建物を見ており「いや、見たいのはそこじゃないよ!」という画像のセレクトになっているかもしれないことをご容赦いただきたい。

※より詳細な3区域別、号館別のみどころについては今後まとめていき、いずれアップしたいと思います。そちらではもう少し細かくその団地建築物を取り上げていこうと考えています。


▽桐ヶ丘アパートの魅力的な居住棟群


それでは桐ヶ丘アパートに数ある居住棟の中でも特に魅力を感じたものを紹介して行こう。


桐ヶ丘アパート居住棟03


ひとくちに「居住棟」といっても桐ヶ丘アパートのそれはとても種類が豊富だ。


桐ヶ丘アパート居住棟02


だが、そのほとんどの住棟は4~5階建てのためエレベーターは無く、建物のどこかに階段があるという点は共通しているようだ。


桐ヶ丘アパート居住棟06


桐ヶ丘アパート居住棟11


玄関側ではなく、ベランダ側から見た姿もまた興味深い。


桐ヶ丘アパート居住棟07


桐ヶ丘団地居住棟12


桐ヶ丘アパート居住棟08


桐ヶ丘団地には昭和30年代に建てられた居住棟が今でも残る。
そういった建物は住みやすくするため、あるいは時代に対応できるように増築、改築が行われている。
下は増築の痕がはっきりと分かる居住棟。
向かって左が旧来の建築部分。向かって右が新しく増築された部分である。


桐ヶ丘アパート居住棟12


増改築跡というテーマを持って建物を見ていっても楽しめる。


桐ヶ丘アパート居住棟05


近代的な建築ではまずありえないこの配管はどうだ。


メカ好きにも受けがよさそうな風貌


下はバスユニットを増築してあるN9号館。


桐ヶ丘アパート居住棟11


増改築を重ねた居住棟の中にはどんどんパーツを付け足していった結果、どう見ても何かの研究施設のように見えてしまう居住棟もある。


桐ヶ丘アパート居住棟09


こんな感じだ。


桐ヶ丘アパート居住棟10

上2枚はどちらもE4号館だが、既に取り壊しが決定している。本当に残念でならない。
※2010年7月の段階ではすでにここには既に誰も入居しておらず、いつ解体工事が始まってもおかしくない状況であった。)

E4号館の表に回るとこのような顔を見せてくれる。


桐ヶ丘居住棟


2階部分に入り口がないのでこれが『メゾネット型』と呼ばれる居住棟だろうか。


桐ヶ丘アパート居住棟04


そういった取り壊しを待つだけの居住棟は画像のように入り口がふさがれており、既に中には入れないようになっている。下の画像はまた別の解体待ち棟。


解体寸前の桐ヶ丘団地棟01


もうこうなるとあとは解体を待つばかりだ。


解体寸前の桐ヶ丘団地棟02


『この居住棟完成から解体までに、のべ何人がこの階段を利用したんだろう?』などと考えると大変感慨深い。

以上のように桐ヶ丘アパートの団地棟は様々な顔を見せてくれる。
見る角度や時間帯によっても異なった情景を見せてくれる。
そんな団地の建築物群は、次項で述べる厚みのある自然と相まって絶妙の輝きを見せてくれる。


見事に自然と交わりあうN25号館
自然と交じり合うN25号館


そのような魅力的な自然の様子については次回以降、別エントリーにてまとめて行く。





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桐ヶ丘レポート まえがき


今回書き残しておきたいのは東京都の北区桐ヶ丘(きりがおか)だ。

JR赤羽駅からそう遠くないこの場所は北区民であっても知らない人が少なくない。なぜなら特定の人間以外はその場所にいく必要が無いからだ。

それは何故か?

「桐ヶ丘」という場所がほぼ団地のみで構成された地域だからなのだ。
今回記録化しておきたいのは桐ヶ丘にある桐ヶ丘アパート(都営住宅)を中心とした『都営桐ヶ丘団地』である。なお北区桐ヶ丘周辺地域にはアパート、マンションが集中しており、この地域は超広域団地地帯としての特異さを併せ持っている。
参考までに列挙するとこのエリアには桐ヶ丘アパートを中心に、

●桐ヶ丘一丁目アパート
●都営桐ヶ丘赤羽台アパート
●都営赤羽西五丁目アパート
●都営赤羽北三丁目アパート
●都市再生機構赤羽台団地
●都市再生機構赤羽台4丁目団地
●東京メガシティ


などをはじめとした多くの団地や巨大マンションが密集しており、いかにこの周囲が団地だらけかということが分かる。これが『都内最大級の団地密集地帯』と呼ばれる所以である。

※上記説明内で「超広域団地地帯」と言う表現を使ったが、団地に居住する住民の多さで言えばこの桐ヶ丘団地よりも、同じく北区内にある豊島5丁目団地や板橋区高島平の高島平団地のほうがはるかに上である。しかしその団地エリアの敷地の広さで言えば桐ヶ丘団地のほうがはるかに広い。これは桐ヶ丘団地に低階層の居住棟が多いことに他ならず、古くから存在する団地であることを意味している。1棟あたりの世帯数が圧倒的に少ないのだ。
桐ヶ丘に最初の団地棟が作られたのは昭和30年。数ある都営団地の中でもごく初期に作られた団地なのである。

このような地域のため、地域住民かこのエリアにある学校、病院などの施設の利用者、もしくは団地マニアな方(笑)以外はこのエリアに行く必要はない地域になっているワケだ。そのためこのエリアはある意味外界から孤立した感があり、まるで時間の流れがそこだけ遅くなってしまっているかのような印象を受けるのだ。また、この団地にある日本最古級の都営団地建築物がその独特の空気を更に増幅させているエリアなのである。
なお、上で「団地マニアな方以外は・・・・」という表現を使ったがこれは当たらずとも遠からずな表現であり、桐ヶ丘団地や周辺の赤羽台団地を含めたこの一帯は一部の団地フリークスたちのあこがれの地でもある。


序への導入部が長くなってしまったが、今回はこの『都営桐ヶ丘団地』エリアについていつもよりも少し真面目に、気合を入れてレポートしてみたいと思う。どの程度の気合の入り方かというと、今回のエントリーをこのようにアップするまでにおおよそ4ヶ月程度の月日を要している。ちまちままとめ続けてやっと公開できる程度になったといった所だ。詳しくはレポートの中で説明するが、このエリアで味わえる高度経済成長期の昭和っぽさの残る部分は建て直し(増改築ではない)や取り壊しが決まっており、どんどん自分の好きな雰囲気が消えてしまっている。大好きな都営桐ヶ丘団地のあの雰囲気を記録に残せるのは2010年のこのタイミングが最後だろうと考え、後年になっても鮮明にこの記憶が思い出せるようにという狙いを持ってデータ化する。


上に書いてきた「まえがき」と以下にまとめる「序章」を以って今回のエントリーとする。

なお、当桐ヶ丘レポートは、

【1】 序 都営桐ヶ丘団地の成り立ちとその歴史背景
【2】 都営桐ヶ丘団地の魅力1~3
【3】 都営桐ヶ丘団地の魅力4~6
【4】 都営桐ヶ丘団地の魅力7~8
【5】 桐ヶ丘レポート 跋


の5項目に分けてまとめてゆく予定である。(書き進めるうちに変更はあるかもしれない)
特に以下より展開する序章についてはいつもと異なった硬い表現が多くなるがご容赦いただきたい。




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以下より桐ヶ丘レポート序
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【1】 序 都営桐ヶ丘団地の成り立ちとその歴史背景


それでは今回の散歩の意図と、2010年7月現在の都営桐ヶ丘団地の状況を理解していただくため、都営桐ヶ丘団地の歴史を紐解いていこう。

なお、本文を書くにあたり北区中央図書館にて北区史および桐ヶ丘団地に関する本を何冊か借り、時代背景考証やリアルにその時代を感じるための参考資料とした。


画像資料があるとやはりよりリアルに当時を想像できる


また、散策の途中に北区赤羽、桐ヶ丘、十条、滝野川などでその地域に住んでいる方に直接話しかけて得たフィールドワーク情報も交えていく。
都営桐ヶ丘団地の魅力が少しでも多くの人に伝わって欲しいという願いを込めデータに残す。


北区中央図書館外観


なお上の画像が資料を借りた北区中央図書館。
実はこの図書館の外装もこれから書く北区の歴史に深く関連している。詳細はのちほど。





[1]東京都北区の歴史 ~軍都赤羽根~

まずは都営桐ヶ丘団地をより知っていただくために団地建設の背景と、この土地の歴史について触れていこう。

もともと東京都北区という土地は明治時代以降『軍事産業』で成長していった地域である。

明治時代、東京の北部地域ではそれまでの農業だけでなく「工業」という産業を発展させようという動きが盛んになり、そのための用地が選定された。これらの工場施設には水が絶対に不可欠であり、そういった条件を前提に選ばれた地域が現在の北区赤羽、十条、王子、滝野川周辺地域であった。
この地には以前のエントリーでも桜の名所として何度か書き残している「石神井川(しゃくじいがわ)が流れており、その豊富な水源を利用することよって工業を発展させていった。この時代に鹿島紡績(その後、東京紡績→大日本紡績→合併吸収を繰り返し現ユニチカとして存在)、醸造試験所(全国の酒の等級がここで決定されていた)、蚕病試験場王子抄紙会社(現王子製紙)+造幣局といった産業や政府機関が北区に発展していった時代であった。※現在の飛鳥山に紙の博物館があるのは王子が製紙産業で栄えたためだ。

なお、下の画像2枚は2008年10月25日の醸造試験所跡地。現在は北区管理の公園になっている。


醸造試験所跡地は現在は公園になっている


公園内はこんな感じ


奥に見える建物は残存している醸造試験所の建物。公園の敷地外にあり入ることはできない。




紡績工場や製紙工場など大規模な工業が発展していくと共に北区に増えていったのが軍事施設であった。

明治5年、現在の北区桐ヶ丘に『兵器支廠赤羽根火薬庫』が完成。(廠=ショウ:壁仕切りのない簡略なつくりの小屋、建物)
続いて明治9年には現在の北区西が丘あたりに『板橋火薬製造所分工場』が完成する。
なお、この頃の赤羽は「赤羽根」と表記されていたそうだ。

軍事産業を含めたこれら工業はどんどん成長し、インフラもそれに合わせるように整備されていった。
明治16年に高崎線が開通し、王子駅開設。明治18年には赤羽駅開設。(※どちらも現在の駅とは異なる位置にあった。また赤羽駅開設を王子駅開設と同じく明治16年とする説もあるそうだが正確には不明)

そのように便利になった町には更にいくつもの軍事施設がやってくる。
明治20年、『赤羽八幡神社』の裏手(現在その場所はミッションスクールの「星美学園」になっている)に『陸軍第一師団工兵第一大隊』が転入。
この転入をきっかけに、本格的に軍都としての北区が発展していく事になる。

なお、赤羽八幡神社は現在も同じ位置に存在しているため、この場所に行くことでよりリアルにその規模を想像できるかと思う。参考までにその住所を記しておく。


赤羽八幡神社

■赤羽八幡神社 東京都北区赤羽台4-1-6
 以下は赤羽八幡神社オフィシャル
http://www3.kitanet.ne.jp/~ak8mans/

第一師団工兵第一大隊転入の1年後となる明治21年、今度はこの地に『近衛工兵大隊』が転入してくる。この近衛工兵大隊の転入場所は現在の『東京北社会保険病院(旧国立王子病院)』のある位置だ。(※北区赤羽台4-17-56)
この第一師団工兵第一大隊近衛工兵大隊を併せて赤羽工兵隊と呼称することもあったそうだ。


※知識が足らず、正確に意味を理解できていない言葉があったため以下に覚え書き。
・工兵
旧日本陸軍で、築城・架橋・鉄道敷設・爆破・測量などの技術的な任務に従事する兵。赤羽の工兵たちは荒川の流れに橋を架けたり堤防を築いたりといった治水工事のようなこともしていたそうだ。
・近衛(師団)
宮城(きゅうじょう≒皇居)の守護および儀仗(ぎじょう=元首・要人などの儀礼・警護)を任務とした旧日本陸軍の師団。明治4年(1871)に創設された御親兵を翌年近衛兵と改称、同21年に近衛師団となった。



明治24年、今度は現在の赤羽台1丁目周辺が『陸軍被服本廠』にあてられた。(ここでは軍服、帽子、靴などが作られたそうである。)
次いで明治28年には王子の豊島地域に『王子火薬製造所』が作られる。なおここでの豊島は現在の豊島区のことではなく北区豊島のこと。
更には明治38年に文京区小石川(現在東京ドーム、後楽園遊園地、ラクーアなどのある場所)にあった兵器製造所が現在の北区十条台に転入してくる。これが『東京陸軍第一造兵廠十条工場』と呼ばれた施設で、この地域には赤いレンガで作られた兵器廠が20棟以上建てられたのだという。


少し話が逸れるが、この赤レンガ兵器廠の一部(275号棟)は驚くべきことに2006年までこの地に残存していた。(長い間民間で転用されていた)残念ながら現在は既に解体されてしまっており、私自身はこのオリジナルの建物を画像データに残すことはできながったが、多くの素晴らしいホームページやブログでその姿を見ることができる。
本レポートの冒頭で「実はこの図書館の外装もこれから書く北区の歴史に深く関連している。」と書いたが、この東京陸軍第一造兵廠十条工場275号棟の一部は流用され、跡地に建設された北区中央図書館の一部として再建された。そう、画像で確認できる赤レンガ倉庫は旧陸軍の倉庫として使われていた建物をそのまま流用して再建されたレンガ倉庫なのだ。わずかではあるが当時の雰囲気を図り知る事ができるのだ。また図書館の内部にはその兵器廠だったレンガ倉庫の説明や、独特な鉄柱のつくりについても解説されている。当時の建材をそのまま利用して館内にその鉄柱も再現されている。2008年に完成したそんな北区の中央図書館には多くの区民が集っている。


北区中央図書館と自衛隊十条駐屯地


北区中央図書館の奥、水色の塔が見える建物は自衛隊十条駐屯地


北区中央図書館外装_275号棟の生まれ変わり


ダメージを含めて意味がある


レンガへのダメージは古いものも新しいものもイコール歴史である。
もう少しこのレンガ倉庫を詳しく知りたい方は以下の資料をチェックしてみてはいかがだろうか。

■北区ホームページ内 中央図書館ご案内ページで公開されている赤レンガ倉庫に関する資料 ※pdf直リンク
http://www.city.kita.tokyo.jp/docs/service/272/atts/027236/attachment/attachment_3.pdf


脱線ついでにもうひとつ。
さきほどGoogleマップで北区中央図書館の航空写真を確認したところ、解体される前の赤レンガ廠が残っている時期のデータで少し驚いた。図書館前の公園スペースが造成途中であるように見えるので、解体直前の2006年に写されたものと推測される。周囲には桜も確認できるので季節は春だろう。あの塗りがボロボロになった水色の屋根を確認することができる。もちろん解像度は低いが今となってはそれなりに意味のある画像になっているのではないだろうか。このバージョンの航空写真データがいつ更新されてしまうかは分からないが2010年7月現在はその年季の入った屋根のペイントを楽しむことができる。
※これが見られるのはGoogleマップのデータ。Googleアース及びストリートビューのデータでは建て替えの終わった中央図書館が写っており、建て替え前のオリジナル廠を確認することはできなかった。


北区中央図書館上空の図


それにしても昔の事とはいえ、軍用施設だった場所をこんな風に見られるなんて・・・・・
戦時中だったらスパイとして逮捕されているところである。





閑話休題。

こうして赤羽には軍事産業に従事する人間や、そういった人たちに食料や日用必需品を売る人々がどんどん流入し『軍都』として発展していったわけだ。(工兵の家族が面会に行く際の土産屋、休日の娯楽のための飲食店、映画館やキャバレー、そして風俗までさまざまな商売があふれ、赤羽はとても賑やかだったそうだ。こういった物資や人の集中が赤羽の町を形成する源となったエネルギーなのだ。)
軍人と民間人はこのように深く結びついていたため、概ねお互いにとても協力的で良好な関係を築いていた。町の多くの人々も「兵隊さん」が町にいるのを喜んでいたようである。
明治36年には「赤羽大火」とよばれる大火事により赤羽地区211戸全焼という大災害に見舞われてしまうが、この際に消火活動や鎮火後の町の復興のために工兵たちが力を貸したというエピソードも残っている。
このような関係は現在北区十条台に駐屯する『自衛隊十条駐屯地』の自衛隊員と周辺住民が深く交流を持っているのを見るにつけ、そういった気質が今もこの地に残っているのかと感じることがある。

大正時代になると赤羽には製麻工場、製糸工場も整備され、陸軍被服本廠へ物資を供給した。

以上のように北区、とりわけ赤羽、十条地区と陸軍とは密接に結びついていた。参考までに昭和初期北区にあった軍用地を2010年の赤羽周辺地図に書き込んでみた。
以下がその地図である。

※いくつかの資料やネットでの情報を元に当時の軍用地を書き込んでいますが、現在の区画に無理やりあてはめただけですので厳密には当時の場所とは異なっている点も多い事をご理解ください。またもともとが軍の施設であったと言う性質上、公開されていないデータも多いため不正確な部分が多いのだと思います。(資料によって内容が異なっているものが多い)それぞれの廠の呼称については年代によっても名称が異なるため地図内の表記とは違った呼称で記録されている場合もあります。


北区軍用地マップ高圧縮版
※クリックで地図拡大します


いかがだろう。想像以上に軍事施設の占める割合が大きいのではないだろうか。
なるほど、まさにこれは軍都だ。

戦前までに北区は23区で最も軍事施設の多い区となり、区の面積の10%程が軍に関連する施設、敷地だったというのだから、軍にかかわる仕事に就く人間も多かった。実際、十条台や滝野川を散策した際に町にいた80歳以上くらいの方何人かに当時の施設の様子などを覚えていないか話を聞いたが、軍の施設で働いていたという方も多かった。
こうして赤羽や王子、十条にはどんどん人が流入し、北区は東京都内でも他に類を見ない特異な形で発展していくことになる。




[2]東京壊滅 ~太平洋戦争勃発そして終戦~

[1]項で書いてきたように、軍都赤羽根は巨大化の一途をたどる。
様々な軍事施設が転入してきた赤羽根の利便性を更に向上させるため、鉄道網が発展したのもこの時代の北区を象徴している出来事だ。

明治43年 十条駅開設
明治44年 王子電車、大塚~飛鳥山間開通
大正2年 王子電車、飛鳥山~三ノ輪間開通
大正4年 王子電車、王子~飛鳥山間開通
大正7年 東京市電、王子~駒込間開通


現在は『都電』として親しまれているチンチン電車のはしりもこの時代に成り立ちがある。
※現代の東京を走る都電はもともと王子電鉄(王電)であった。王電は昭和17年に「東京市電(市電)」に統合され、翌昭和18年に「都電」と名称を変える。

こうして北区は成長を続け、人口は昭和15年に戦前のピークである35万人に達する。

昭和16年 太平洋戦争 開戦
昭和17年 東京市電が東京地下鉄道を買収 王子~赤羽間開通
昭和18年 学童疎開始まる


開戦後の軍都赤羽の空気は如何様な物であったろうか・・・・。
軍事産業によって発展してきた町は当然敵軍からの爆撃目標となる。

昭和20年4月13日深夜から4月14日未明
同年3月10日のいわゆる『東京大空襲』に続き、東京市城北地域が空襲に遭う。
当時の東京市滝野川区、王子区を含む城北地域一帯に壊滅的被害が出る。

昭和20年8月15日 終戦
この年、北区の人口は14万人にまで減っている。あなたの周りにいる人の10人に6人がいなくなる計算だ。想像できるだろうか。昭和48年生まれの自分にはリアルにそのような感情を想像することは難しい。

生き残った人々はそんな状況の中を生き続けなければならない。
当時は配給だけではその日の食料はままならないような状況で、赤羽には自然とヤミ市が発達していく。現在も北区赤羽に残る『赤羽一番街』の発足はそんな時代、昭和21年の事である。

昭和22年、戦火によって都市が崩壊し人口が激減した東京では行政の主導により区画整理、区画統合が行われ、新たな東京の復興が始まっていく。このとき東京は初めて23区制となり、東京都北区が制定される。

なお、この年から北区には進駐軍が駐留することになる。
都営桐ヶ丘団地内で話をさせてもらった生まれも育ちも赤羽だという68歳の男性は小学生の頃にこの進駐軍からガムやチョコレートをもらった記憶が鮮明に残っていると語ってくれた。戦後の食糧難時代であり、当然お菓子などは買えず甘いものに飢えている時代だ。子供であったなら有無を言わさず飛びつくだろう。その男性いわく「アメリカ人のくれるガムはね、今のチューインガムなんかよりも厚くて噛み応えがあってうまかったんだよ。噛んでは口から出してとっておいてまた噛んでってのを3日くらいは続けたよ。あの厚いガム、今売り出したら売れるんじゃないかい?」とのことだった。少しユーモアを交えて明るい語り口で話をしてくれたため悲壮感はまったく感じなかったが、つらい時代であったという内容は複数の資料からも見ることができる。またその男性は「アメリカ兵は最初ッから自分たちで(日本)軍の基地使おうと思ってたから軍事施設は残ったのに町はボロボロだったよ。」とも言っていた。

こうして北区にあった広大な軍用地の半分以上は占領軍(実質的には米軍)に接収され、その後段階的に日本に返還されていくのだが、最終的に『キャンプ王子(現在の北区中央公園)』が返還される昭和46年(1971年)まで24年間に渡って北区に駐留していたのである。
現在も同地にはキャンプ王子だった建物が残り、『中央公園文化センター』として北区民に利用されている。

下の画像は2010年の中央公園文化センター。

キャンプ王子だった北区中央公園


■北区ホームページ内 中央公園文化センターへのリンク
http://www.city.kita.tokyo.jp/docs/service/003/000391.htm


以前のエントリー『真夏の散歩in7月 【@北区中央公園】』でもここを訪れたことがあり、この建物は目にしたことはあったが、その時にはこのような歴史をたどってきた建物だということは全く知らずにいた。
今回、本レポートを書くにあたり改めて中央公園文化センターを見てきたが、やはりそういった背景を知ったのちに見た建物からはこれまでとは違った雰囲気が感じられた。


北区中央文化センター壁のレリーフ





[3]戦後復興期 ~赤羽郷から桐ヶ丘団地の誕生~

このような時代背景の中、東京都及び北区は政府(大蔵省)から払い下げられたかつての広大な軍用地をいかに利用していくかを議論した。

戦後復興期の人口増加と居住区域の不足が大きな問題となっていた折、北区はそれまであった『兵器支廠赤羽火薬庫』をそのまま住居として転用する。この兵器支廠赤羽火薬庫跡の居住区は主に戦火で住居を失った戦災者や外地からの引揚者、またこの地域にいた浮浪者や米兵上陸のあった沖縄からの転居者など、縁もなく境遇も全く異なった人々が集まって形成されていったのだと言う。こうして赤羽の地に集まった人々は戦後復興期に「この地を自分たちの第二のふるさとにしようではないか」と団結し、自らこの地を『赤羽郷(あかばねごう)』と呼んだそうだ。この赤羽郷のあった場所こそが後に都営桐ヶ丘団地が造られる場所である。なお、赤羽郷という名称は現在もこの地を走る『国際興業バス』のバス停名として残っている。


今もバス停に残る赤羽郷の名称


赤羽郷の居住棟はもともと人の住む建物ではなく、火薬庫として使用されていた倉庫なのだからその生活環境は非常に悪いものだったという。「廠(しょう)」という呼称が示すとおり、それはもともとが倉庫であるから風呂はもちろん台所やトイレも窓も畳も無く、水道も電気も引かれていない状態だったそうだ。そんな50~70坪ほどの火薬庫1棟におよそ10世帯ほどが居住していたのだそうだ。資料を見ると6畳くらいのスペースに家族9人で寝ていたと寄稿されている方もいた。当初、建物内には世帯ごとの間仕切りもなく、竹などを編んでそこに泥を塗って壁にしていたのだという。(壁とは言ってもきちんと天井までふさがれたものではなく屏風のような仕切りに近かった。)

居住棟として使われたこのような火薬庫は赤羽郷に51棟あった。
もともとが火薬の貯蔵エリアであるから、誘爆を避けるため一つ一つの火薬庫それぞれが4~5メートルの高さに盛り土された土塁(土手)に囲まれていて、その土塁に掘られたトンネルを通って人々は移動していたのだという。赤羽郷居住者であっても迷ってしまうような造りであり内部の様子が良く分からないことや、居住者の中には素性のはっきりしない人もいたため外部の人達は気味悪がってほとんど入ってくることがなかったと言う。このような環境にあったため、赤羽郷の人々はいわれのない差別を受けることもあったのだそうだ。


赤羽郷の姿01


赤羽郷の姿02

※上の2枚は赤羽郷の実際の写真です。土塁やトンネル、廠の簡素な作りといった赤羽郷のイメージをつかんでいただくために「桐ヶ丘35年史」より転載しております。実際の画像を見ないとこの赤羽郷の生活はリアルに想像できないという理由からですが、使用が不適切であるとご指摘をいただいた場合にはすぐに削除いたします。上の廠1棟に10家族が住んでいる様を想像してください。


昭和27年(1952年)4月、赤羽郷内に小学校創立
当時周辺に桐の木が多かったことから『桐ヶ丘小学校』と名づけられる(桐ヶ丘小学校の校章も桐をあしらったものだ)
同年10月、東京都は赤羽郷エリアの都市開発計画を発表。「グリーンハイツ都営住宅」建設計画として策定。
昭和29年、赤羽郷にあった小学校の名前から計画名称を「桐ヶ丘文化住宅」建設計画に変更
昭和30年、赤羽郷に最初の団地棟が建つ


こうして戦後から赤羽郷で暮らしていた人達の生活は大きな転機を迎える。





[4]高度経済成長、そして現在 ~あこがれの団地生活~

一般的に日本の高度経済成長期といえば昭和30年からオイルショックまでの18年間を指すことが多い。
戦後の異常(カオス)な状態からやっと日本が復興し、世界でも類を見ない発展を遂げていく時代だ。
東京タワーが完成し、テレビ放送はカラー化が進み、新幹線が走る日本。そしてオリンピックや大阪万博が開催される。これ皆この頃に起こっていた事である。

そんな成長の時代に桐ヶ丘団地もどんどん完成していく。

東京都はこの地に当時では日本最大の団地を作る計画を発表する。
※当時は団地という表現はまだ無く、集合住宅と表現されていたそうだ。
それまで木と紙でできた小さな平屋の家に住んでいた日本人はコンクリートで固められ、見事に造成された巨大な団地という空間での最先端の生活に強烈に憧れを抱いた。団地に住み、三種の神器と言われたテレビ、洗濯機、冷蔵庫を揃えた生活がステイタスだった時代だ。
特に桐ヶ丘団地は国内最初の大規模団地であったことや、隣接する陸軍被服本廠跡地に赤羽台団地も建設されたことで団地の町、最先端の町として名を馳せることとなる。※余談ではあるがこの赤羽台団地も団地マニアにはとても人気の高い団地だそうだ。人気が高いのもうなずけるオリジナルの空気を持っておりこちらも良い散策スポットである。そちらの魅力についてはまた別の機会にいずれ。

居住棟完成当初、この都営住宅は抽選によって入居者が選ばれたが人気のある部屋は100倍以上の競争率になることもあったのだと言う。それは一例にせよ、昭和30年代後半頃の都営住宅の入居平均倍率は40倍を超えている。いかに団地に住みたい人が多かったかということが分かる。もちろんこれは単純に最先端の団地生活にあこがれて入居を希望する人だけでなく、住宅難だった当時に「安く、綺麗で丈夫な家に住める」という理由から入居を希望する人も多かったのだ。

そうやって団地に集まって来た人々は自分たちの暮らしがより良くなるよう自治会を作り、ルールを決めていった。
昭和45年(1970年)頃からは第2次ベビーブーム時代となり、団地内は子供であふれるようになる。また、新たな居住棟の完成によって次々に家族が入居し、都市計画どおり巨大団地となっていく。団地内にある桐ヶ丘小学校の児童数推移を見ると昭和50年までは児童数は増え続ける一方であった。(ただしその年をピークに児童数は現在も減少の一途をたどっている。)
兎も角、子供の多かったこの時代には団地が企画した仮面ライダーショーや夏祭りなどが団地内の公園スペースなどで頻繁に催されていたのだという。遠くに出かけることなく買い物も、娯楽も団地内で済ませる事ができたのだ。


創立記念誌も桐ヶ丘の大事な歴史資料


このように活気のあった都営桐ヶ丘団地の状況が徐々に変化していくのは第2次ベビーブーム以降だ。
小学生だった子供たちは次々に成人し、居を新たに構えこの団地を出て行くようになる。親たちはこの団地に住み続け、高齢者が多くなる。ベビーブーム期は去り、生まれてくる子供の数も減少していく。
これが繰り返され、W1号館のできた1956年から、今年2010年で54年が経過した。
そういった人間流出の末、現在の桐ヶ丘は高齢者ばかりになっている。
(なおこの高齢者増加の傾向は北区全域で大きな問題となっている。参考までに東京23区の年齢別人口割合を区別に見ると、80歳以上の女性の割合が最も高いのは北区で、80歳以上の男性の割合も2番目に高い。)

主に昭和30年代に作られた建築物も老朽化が進み、住らし辛い居住棟は補修、改修工事が行われたり、取り壊されて新しい高層住宅棟が建てられたりしている。

これが現在の都営桐ヶ丘団地が置かれている状況だ。




[5]都営桐ヶ丘団地の魅力 ~とらえかたの一例~

北区の発展から都営桐ヶ丘団地の現在までを長々と書いてきたが、都営桐ヶ丘団地のどこが魅力なのかと問われればそれはいくつも存在するが、強いて1つを挙げるとするならばやはり現在の桐ヶ丘団地の姿から過去が想像できるのが一番の魅力だと考える。誰も人がいない公園に子供があふれる様を想像してみるなどそういうことだ。ある種のタイムマシンというか、時間を過去に切り替えるスイッチになると言う感じだろうか。
私は北区の歴史や日本の過去など、都営桐ヶ丘団地を通して多くの事を学ばせてもらっている。


美しい桐ヶ丘団地


また、そんなコムズカシイ話は別にして単純に「緑が綺麗で独特の雰囲気のある特異な空間」としてこの広大なエリアを楽しむ事もできる。古い建築物が好きな方にはちょいと崩れかかっている古い館棟や街灯に残されたレアプレートを。団地マニアな方には後付けバスユニット棟や増築に次ぐ増築でカスタムされまくっている研究施設風館棟だ。まだまだあるぞ。団地内の庭にある植物の数も半端ではない。ガーデンマニアな方は40年物の樹木やコケ類の繁殖を楽しむこともできる。「桐ヶ丘団地にある植物の種類数について」というテーマで夏休みの自由研究もパーフェクトだ。そうだ忘れちゃいけない。給水塔施設も見逃せない魅力だろう。


そういった都営桐ヶ丘団地の魅力を今後数回にわたって別エントリーでまとめていこうと思う。
少しでも多くの方に桐ヶ丘団地の存在が伝われば幸いである。


以上、都営桐ヶ丘団地への感謝の気持ちを込めて序章を閉める。



2010年7月30日 Fri.  闊歩マン






<参考資料>

・東京航空写真地図北区 (昭和29年)
・北区の歴史 東京にふる里を作る会 (昭和54年)
・桐ヶ丘三十五年史 桐ヶ丘三十五年史編纂委員会 (昭和56年)
・北区郷土資料調査報告第一号 (昭和58年)
・北区の交通 北区教育委員会 (平成2年)
・桐ヶ丘創立40周年記念誌 北区立桐ヶ丘小学校記念誌編集委員会 (平成4年)
・北区郷土史 北区史を考える会 (平成5年)
・団地ライフ 北区飛鳥山博物館 (平成15年)
・写真で語り継ぐ平和の願い 北区総務部総務課 (平成18年)
・写真と地図で読む!知られざる軍都東京 洋泉社 (平成18年)
・東京第一陸軍造兵廠の軌跡~埼玉と東京を中心に~ ふじみ野市立上福岡歴史民族資料館 (平成19年)
・昭和30年・40年代の北区 三冬社 (平成21年)
・北区平和マップ 北区総務部総務課 (平成22年)


※東京第一陸軍造兵廠の軌跡~埼玉と東京を中心に~は平成19年9月29日から同年11月25日まで、埼玉県ふじみ野市のふじみ野市立上福岡歴史民族資料館で行われていた『東京第一陸軍造兵廠の軌跡~埼玉と東京を中心に~』展の図録となる。
※団地ライフと北区平和マップを除く全ての資料は北区中央図書館の蔵書を利用している。
※団地ライフは平成15年10月25日から同年12月7日まで、東京都北区の飛鳥山博物館で行われていた『団地ライフ -「桐ヶ丘」「赤羽台」団地の住まいと住まい方-』展の図録となる。都市計画の図案や建築物の立面図、平面図(間取り)なども載っており、最近団地建築物に興味を持ち始めたばかりの今の自分にとってはまるで教科書のような資料(笑)だ。これによるとドア、窓、ステンレスの流し台や便器など、使い回しが効くように規格化されたパーツのことを『公共住宅用企画(KJ)部品』というのだそうだ。勉強になった。この『団地ライフ』は北区中央図書館で借りる事もできるし、JR王子駅に近い「飛鳥山博物館」で販売もされている。企画展見たかったなー。いや、本当に。
※ためしにKJ部品で検索してみたところ、UR都市機構のページで以下のようなpdfを見つけた。KJとBLだそうだ。むう、この世界はなんだか深くてハマってしまいそうで怖い。(笑)
気になった方はpdfをご確認ください。ファイル内には1960年代、1970年代の公団のキッチン写真が載っています。高度経済成長期の団地住まいスタイルのイメージがより鮮明に伝わると思います。
pdf直リンクURLはコチラ ↓

■街にルネッサンス 独立行政法人都市再生機構 都市住宅技術研究所ページ内
 住宅設備の変遷モデル(pdf)
http://www.ur-net.go.jp/rd/corner-p/pdf/ur2006rd010-07.pdf



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